みんな幸せでいれればいいのに。
でも不幸のない人生なんてそれこそ不幸せだ。
悲しいな。
幸せ不幸せ難しいな。
人はどうしてこうも。
初めから何もなかったら、もしくは一斉に何もなくなったら、なんて考えてしまう。
優しい人が、愛ある人が、幸せでいますように。
個人の優しさの範囲が、愛の範囲が、広がりますように。
優しすぎて疲れた人が休めますように。
綺麗なものが尊くて、汚いものを排除するつもりはない。
ああ、難しい。
過去最低かもしれない駄目な日々を過ごしてました。
今日から変えます、変わります。
「よし!やるぞ!」
っていう気持ちになると気分がいい。希望や気力が湧いている。
定期的に「好き」について考えてしまう。
「好き」という感情はどうしてこんなに嬉しいのだろう。楽しいのだろう。幸せなのだろう。
私は猫が好きだ。見かけるだけで和んでしまう。
私は犬も好きだ。中型犬をわしゃわしゃ撫で回す夢がある。
私は作品が好きだ。作品は色々あって色々な人がいることや色々な考えがあることや色々な感情を知れるから。
好きは嬉しい楽しい幸せだ。
しかし好きだからこそ悲しみも深まってしまうことがある。
「好き」はどうやって決まるのだろう。育ってきた環境が全てなのだろうか。個人の中に好きになってしまう何かがもともとあるのだろうか。
全ての人が好きなものはあるのだろうか。あるとすればどうして好きになったのだろうか。
誰かが「〇〇が好き」と言い続けたら、私は〇〇を見たときにその誰かを思い出す。ふとしたたった一回の「〇〇が好き」を覚えているときも、誰かを思い出すだろう。
嫌いはなかなか言う機会がないせいか、あまり覚えてなかったりする。
嫌いを聞くより好きを聞くほうが楽しい。
しかし嫌いを言いたくなるときはある。(これは何故なんだろう)
嫌いを言える場も必要な気がするが、嫌いのたまり場は嫌な感じがする。するとやはり、好きの割合を多めにして少しの嫌いを日常で吐くほうがいいのだろうか。
好きを増やす人生というのも、なかなか楽しそうだ。