「…まいったな」
午前0時を回ってもひとつも眠くならない。大抵こんな夜は何かしらの気掛かりが訪れている証拠だ。いい歳した大人が、年端もいかない女の子のことを考えて眠れないだなんて。
「…これは僕がまだ若いってことなのかなぁ…」
そんな呟きは誰も居ないアパートの六畳間に小さく響いた。
原因は知ってる。
と言うより、体験してる。
今日の学校で、休み時間中の化学室に彼女と僕は二人きりだった。授業で使った実験道具を片付けていた時のこと。彼女が椅子に登って作業していたのがそもそもの発端で、それからバランスを崩し転倒しかけた彼女に僕は咄嗟に飛び出した。殆ど反射だったからか。タイミングが良すぎた。お互い怪我をしなかった代わりに、唇が触れ合ってしまったのだ。
そう、それだけ。
それだけなのに。
「…まいった…」
まさかこの歳になって、たかがあんな事故の産物がこんなにも印象深く残るとは。これはせいぜい、明日彼女に眠れない夜を過ごしたことを悟られないよう頑張るしかない。そこが僕の収まりどころだなと思い詰めて、次に、今頃彼女はどんな夜を過ごしているのだろうと気になった。年頃の女の子だ。いくら事故とは言え教師とキスしただなんてちょっとしたニュースだ。そう言えば彼女はあのキスの後、どんな顔していたっけ。確か一瞬呆然として、それから…
「赤くなってた、な…」
それを思い出して、今度は僕が赤くなる番だった。なんでいつまでもいつまでも彼女のことを考えているのか。眠れないほど。でもこの気持ちの名前を口にしてしまえば、きっと後戻りなど出来ない。教師でいることがこんなに悔しい。そんな僕はまるでただの高校生の男子だ。ああ本当に、そうだったら良かったかもしれない。気持ちに収まりがついて僕はようやく微睡んだ。明日会っても何も無かったかのように。何も無かったかのように。爆発してしまわないように。繰り返しながら眠りに落ちた。

翌日も彼女のクラスで授業があったが、僕は意識的に彼女を見ないよう勤めた。だが、授業が終わると彼女はそのまま化学室に残った。実験道具は片付いているし、いくつか授業の質問も答え終えた。なのにまだ残ると言うことは、やはり昨日のキスを根に持っているのだろうか。 敢えてひと言も触れずにいた僕の気持ちを無視して、彼女は振り絞る様なか細い声でこう言った。
「先生…キ…キスして…」
「え?」
驚きの余りそれしか声を発せられなかった。これは予想外。よく見ると彼女の目の下にはクマが出来ていた。
「お願い…します…」
もしかすると昨日の事故で彼女は勘違いをしたのかもしれない。吊り橋効果と同じ原理で。じゃあ僕はどうだろう?昨夜眠れないほど考えて、それでもこの感情を吊り橋効果だった、で片付けられるだろうか?
「自惚れて言う訳じゃないけど、それはつまり、確認したいってこと?」
「…え?」
「この気持ちが、本当に恋なのかどうか」
僕は自分にも言い聞かせるようにして言った。何せ後戻りは出来ないのだから。
「ごめん、なさい…迷惑、ですよね…。あの…私昨夜なんて眠れなくて、先生の顔ばっかり浮かんできちゃって…でも、あんな状況での…あんなことでほんとに、って…勘違いかなって…でも収まらなくて…だから、あともう一回だけ試したら…気持ちの整理がつくと思ったんです…」
たどたどしく、でもハッキリと彼女は吐露した。けれどその言葉に僕はひどく共感していた。
「…来て」
彼女の細い手首を引いて、少し埃っぽいカーテンの中に2人の身体を隠すようにして、僕は声を潜めて告げた。
「後悔しない?」
彼女の顔はみるみる紅潮し、小さく頷き、静かに目線を逸らした。僕がその紅く小さな唇をそっと指でなぞると、彼女は少し震えた。その仕草に、どうしようもなく耐えがたい乱暴な衝動が僕を突き動かした。
僕は彼女を抱きすくめ、昨日のキスよりも熱っぽいキスをした。
もう後戻りなんてする必要はない。僕が彼女を迎えに行けば良いだけのことだ。彼女は僕の背中に手を回し、小さな身体で必死に応えてくれる。
少ししてチャイムの音が聞こえ、2人は一瞬離れた。
「…気持ちの整理はついた?」
「はい…か、勘違いじゃ…ないです」
「うん、僕もだ」
改めてお互いを見つめ合い、僕らはもう一度キスをした。
今夜は2人とも眠れますように。
そんな祈りを込めて。