父は虐待事件報道を見る度に非難の声をテレビに向けていますが、バリバリの虐待嗜好者である父の言葉としては娘として耳を疑うばかりです。父のブログにも虐待問題に関してシャアシャアと語っている。

虐待中という異様な空間を幾度となく作り上げてきた輩でもある父の「自称しつけ」は、聞きたかったら喜んで話してくれる勢いで正しい教育だと思って居るので、あの非難がさっぱり理解できない。シななければどうということはないのだろうか。
さっきもあるお客様(ご婦人)に話してましたが、父「教育失敗した。→子供など一人二人でいい。(→死人が出るほど徹底的にやればよかったという後悔?)」ご婦人「そんなこと言ったらバチが当たるよ」私「それは自我だ」父(退室→酒汲んで再登場)...目が見えなくなるなら今だよ今。

片や親の子に対する虐待、片や老人ホームでの虐待。虐待は負の遺産として継承されると聞きますので、もしかしたらはからずも...因縁的に...そういうところに...預けられているの...かも?自らの手を汚さずとも、虐待はどこでも待ち受けている。得てして、この世に天国と地獄は必要不可欠なり。っと!

因みに、必ずしも継承されるとは限らず。というのも、以前アルバイトで頑張ってくれたおひーちゃんのお母様の前例があるからです。同じ環境下であっても魂の出所で切り開く運命に違いが生まれるのではないか。かなり一握りだと思うのですが、「目が開けた人」と考えておきます。

虐待嗜好者の配偶者は、
例えば妻だと「バタードウーマン」と言って「殴られる女性」といいます。守ることも出来ず、常に殴られる立場にある癖のある人。悪のタッグですね...悪循環です。もうね、救いようないんですよ。
うちの母はそういった女性なので、そうなってるわけですが、やり返しとして父の悪口を子に吹き込み、子も子で母が大事だからお父さんて悪いな!と同意したら、そんなこと言ったらあかん、あんないいところもあるこんないいところもある、と逆を言って、子を混乱させる。こうして自分の側に着かせていい気になってる母なので、どっちも酷いんですよね。毒親という言葉も割りと知られるようになりましたが、恥ずかしながら両親は宗教云々オタメゴカシの大好きな毒親のようです。
問題を持たないと宗教を求めない。末法の人間に宗教を与えると邪教化する。その様に思い至ります。

そんな母なのですが、虐待嗜好者の父に似て粗暴な弟が暴力でものをいわせる度に憤慨すると、「あの子は優しい子やで」と諭してくるのですが、世の中には「優しさ」と「虚栄心」を履き違えた人間が多いのをつくづく思い知る結果を弟を通して多く見ます。なのに母にはわからない。バタードウーマンのいかれ具合はここにあるのかとも思います。
それで、つい先日思い至ったのですが、決定的な違いは
*「優しい人」は無闇な暴力を振るわないのは勿論、人も物も大事にしているように思います。
*「虚栄心の人」はカッコよく見せたいだけなので倫理的に暴力を用いることを善しとし、物も大事にせず人のものだと進んでずさんに粗末に扱います。弟が意味もなく怒り、怒りに任せて飲酒の身でありながら重機に乗り込み私の車を破壊しようとしたときはどうなるかと思いましたが、主張としては「無視した!無視した!」との繰り言。無視してないんですけど。この主張、アイドル活動をしていた女性を滅多刺しにした某犯人と同じです。家庭内だから何もないですが、逮捕になるだろう事はよく起こっています。
祈りがあるのと無いのとでは大きな違いだなと身に染みて思いますが、まぁ、天もうかいかいそにしてもらさずでしょうか。
神様は何処からでも、自らの心の内からでも見ていらっしゃると肝に銘じ、人にも物にも優しく生きたいと思います。