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氷菓!

最近ハマッたアニメが!

京都アニメーションさんの「氷菓」!

何が良いって、内容と作画!!

いくつか前のブログで話していた、「才能」について触れている作品のひとつです。

原作は米澤穂信さんの小説です。「インシテミル」とかの!
本格サスペンスミステリから、青春ものまで、幅が広いですね!

この氷菓は、日常ミステリでありながら、青春のほろ苦さ、人間らしさを描く、素晴らしい作品!

もうすぐ最終回みたいですね。悲しいさみしい…

細かい表情や背景の書き込みなど、作り手のこだわりがすごくてですね。それが伏線になってたりして、何度も見直したくなります。そういうとこはジブリに次いで好きですね。

添付はそんな氷菓にはまった私の初書きのイラストです。へたくそめ!笑

ちなみに登場人物のなかでは左下の福部里志くんのファンです。

見かけも好きっていうのあるんですけど、悩んでることが私と似ていて、共感するんですよ。考えすぎちゃうタイプ。今一緒に苦しんでます!笑

映画、アニメーション、絵本、小説、漫画、絵画、彫刻、デザイン…

なにかを豊かに伝えられるというのは、素晴らしいですよね。

日本のアニメーションが世界に評価されているのは、日本人の繊細さ生真面目さのあらわれだと思います。職人技じゃないかな!
日本人で誇りに思う!!←何様!

見たことない人はぜひ!

「はっ」とする瞬間

最近、本当に「頭でっかち」な私。
中ニ病ってやつをこじらせてるんじゃないの?今更だけど、って思います(笑)

そんな私に訪れた、今日の衝撃の瞬間。

将来の事、卒業制作の事、近々ある試験のこと、 不安が頭の90%を占めている感じ。

ふいに、しばらく会っていなかった、他の専攻の友人に会いたいなあとぼんやり思っていました。
前に展示を一緒にやった友人も含め、自分と違う分野を勉強している人には、自分には無い視点や考え方があるものです。その「刺激」を、本能的に頭がほしがっていたというかんじでした。

そしたら今日偶然、久しぶり(多分まともに会話するのは半年かそれ以上ぶり)に絵画専攻の友人に会いました。
なにげない会話の中で近況報告をし合っていて、卒制の話に。

私「卒制が、進んでなくってさ…先生に見せたらダメだしされて、ふりだしに戻っちゃった。卒業まで時間もないし、焦っているよ。いつもの、考えすぎる癖で、なかなか動き出せないし。」 
友人「別にこれが最後じゃないんだから、いいんじゃない。そのときに出来たものを出せば。」


―これが最後じゃないんだから


これが衝撃だったのです。
そういえばこの友人は前も私の、「創作への悩み」に対して、「今回で終わらない。一生続いていくんだから、こだわりすぎなくていいのでは」と話していたのを思い出しました。
思えば、「僕はあまり普段から悩まない」という言葉にもびっくりしたものでした。なにせ自分とまったく違ったもので。

私は、最近よくも悪くも「結果」しか見ていない。将来に続いていく道のことを、見ていない。
とにかくどこかに所属して、安心したがっていた。ただそれだけ。誰も見ていないのに「人目」を勝手に想像して、決めつけておびえていただけ。

「良いもの」をつくる。
「作るよろこび」に対してのこだわりの薄さよ。

ちなみに友人は、「
最後じゃないんだから」という理由で今を「てきとうに」している人ではありません。
だからこそ意味が染みるのですが。

とはいえ彼の私への言葉に深い意味はないでしょう。
それは彼の中に当たり前に、さらさらと流れているもの。
「勝つかどうか」は問題ではなく、「過程を楽しむ」「自分の限界値を上げる」「新しいことをする」が彼にとっては価値のように話していて感じます。(本人は多分無意識)


そんな衝撃の後、ウソのように頭が「スっ…」としたのがわかりました。

そうだ、最後じゃない、「そのとき」がくるまで、ベストをつくせばいい。

こだわっているものはつまらなく、ちっぽけだったんじゃないかなあ。

すごいっていわれたい。あなたらしいねといわれたい。あのこにまけたくない。

言葉にすると小物感が半端ないな、私は。(笑)


おおきくみよう、広い道を。


薄々感じていたけれど、視野が本当に狭まっているなあ。

「浪人してでも第一志望以外受けない」「あのひとみたいに、描けるようになりたい」

何年か前の、自分を省みず危ないくらいの攻めの姿勢できらきらした新鮮なきもちは、どこへ。

4年もたって、昔の自分をうらやむなんて、情けないもんよ。


さて、考えすぎる癖とは一生つきあわねばならぬ。友人とわたしは違うのだから。

でもほんとうに、今日は私の心に、かたまった頭に、風が通った日だったなあ。

今日言えなかったからこの壁乗り越えたら言おう、ありがとう、ほんとうに。


つつしむべし。

以下、日記(気持ちの整理)です。ひとりごとを、ポエムみたいに言ってます。ご注意を。笑



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眠れない日と、胃が痛む日と、食欲のない日が続いている。だからといってやせたわけでもやつれたわけでもない。食べたり食べなかったりするだけだ。

少しはやせたらよかったのに。ようやく元にもどった、ぐらいのもんだ。誰に心配されるわけでもない。もっとも、最近は人にあっていないのだけれど。ちなみに引きこもりでもない、最近のことはたまたまだ。まあ厳密にいえば、誰かに声をかけることくらいはできたはずだが、遠慮した。文字通り、遠慮。自分勝手な理由で友人を巻き込むような、本当に友人ならば、許されるはずのことも、できなかった。

体調がすぐれない原因は、まず生活が乱れていることだ。生活が乱れているのは、問題が解決されていないからだ。

問題は、自分の将来が定まらないことである。定まらないというのは、まあ、進路が決まってない、「所属先」がない、ということ。

考えはじめたのは去年の夏、具体的に行動を起こしてから、今月で9ヶ月。
有言実行してきた。休日があっても思考が止まった覚えはない。

考えはじめてから一年過ぎてしまったことになる。まだ結果はでない。

ここまでくると先輩や恩師、友人もみんな、「運が悪い」と口を揃える。本当にそうなのか?

けれど、ひとに指摘されることには、心の中、あるいは言葉で、「とっくにそんなことはわかっている」と答える。

見栄をはっているわけじゃない。本当に、大抵のことはもう、考慮済。そして現場でテスト済。リストに書き出したなら、全てにチェックがつくくらい。そして、場数をある程度積んだ中で、客観的視点(他人)から見ても、少なくても致命的ミスはない。
私だけが絶望的に力がない、というわけでもない。

ならばチェックリストにある改善点の、その組み合わせが悪いなら、本当に運だ。でもその運に個人差がある限り、それは実力としか思えない。私は、なにか欠落してる。

そして、見失っているものは、「目的」だと予想する。
もうどう考えても、目的がないから、「非効率的なやり方」になっているとしか…

目的。目的。目的。今まで散々、コンセプトだの、目標だの、プロセスだの、授業でも、課外でも、大切に、時には意固地に守ってきたのに。自分のことはわからない。ボンヤリとは見えている。どうやって言葉にすればいいんだ。

友人だって、そんな事細かに雄弁に、誰も思いつかないような素晴らしく具体的な目標なんて、話していないのに。なぜ。

でもおそらく原因のひとつはそれで合っているだろう。

もうひとつは、性格だ。

弱みを基本的に見せたくない。できない、と言いたくない。とはいえ嘘もつきたくない、だから他人に相談できない。

非効率的なことをしたくない。努力はしたいが、努力は無駄にしたくない。無駄にならない努力がしたい。

なぜなら、努力が報われないことは、それまでの苦労が水の泡、時間が無駄になった、ということに、どうしても思えてしまう。

失敗に何か学ぶものがあったとしても。

そして、また一からはじめるときの気の遠くなるような感覚が、自分はダメなやつだと、繰り返し思わせる。

デザイン科なのに、広告だってたくさん見てきたのに、自分の広報が下手くそだなんて、認めたくない。

今まで、自分の武器は習慣と信頼。あの小説にもあるように。
でも、信頼は日々の積み重ね。すぐに、他人に伝わるものじゃない。

それくらい、地道に、それなりに、積み上げてきたものを、あっさり、授業にもろくにでず、私に仕事を押し付けたようなひとにひっくり返され追い抜かされた。

でも本当は自覚している。

負けず嫌いに、くだらないプライドに、負けてるのはわたし。

長くなった。

課題は、目的の明確化

「ひとまず置いておく、とにかく」

の精神。

無駄を無駄にすべし。

強欲、怠惰、傲慢、嫉妬、慎むべし慎むべし。(これもとある小説にあるように)

今日もまだ眠れない。
問題も、やるべきことも、シンプルなのに。



「才能」について

最近、偶然なんですが小説、映画、アニメなどで連続で同じようなテーマを扱った作品を見たり読んだりしました。
意図したわけではなかったんですが、もしかしてこれは自分へのメッセージか問題提起なんじゃないかと思ったりしました(笑)

で、そのテーマというのが「才能」でして、どの作品も主人公または登場人物が「持つもの」あるいは「持たざるもの」なわけです。
努力せずしていろんなことをこなしてしまう友人に苦い思いをしたり、本人が才能に気づかず周りがやきもきする。
とある人は自分をあきらめ、とある人はどんなに無謀だとわかっていても挑戦し続ける。

さて、自分はどれにあてはまるか?

言うまでもなく私は「持たざるもの」です。
これらの作品達に共感したのもまさにその苦い経験があるからでした。
中学校まで、天狗とまではいかないけども、周りに「絵が上手い」と言われてそれなりにいい気になっていた私は、
高校生になって自分よりはるか上のレベルの友人たちに囲まれてしまったのです。

ひとりは自分の能力に気づかず「趣味」で絵を描くにとどまる。
もうひとりもその時点で十分上手く、磨けばもっとうまくなる能力があったけれど、「努力」を嫌って「趣味」にとどまる。さらにあるひとりは何でもこなせるタイプで、絵も練習しなくてもある程度上手い。

そして、あるひとりは 「努力の天才」。向上心も負けん気も強くて、その上努力を当たり前に楽しめる。目標もはやくから定まっていて、気づけばひとりでどんどん先に進んでいました。みんなの憧れ、先生の希望の星。おまけに勉強もできるときた。

多少過剰に表現してしまったかもしれません(笑)。でも当時の私にはそう映っていたんですね。
なので描けるくせに、期待されているのに努力しない友人や、さらっとなんでもこなしてしまう友人を見ては、腹を立てて、飲み込んでいました。

どのひとも、 私にとって衝撃で、向上心をかきたてる存在で、それでもって劣等感を与える友人でした。
でもそのとき 挫折しといてよかったなあと思います。
自分を見つめざるを得ない機会が、未熟でもあのときにあって。

「努力の天才」は、 私の入れなかった憧れの大学に見事合格しました。でも、こんな表現は生意気だけども、なるべくしてなったんだなと思います。あの人は行動もしていた、努力もしていた、「天才」でもなかった。だからこそ、そのひとの存在は私にとって「劣等感」になったのだと思います。だって私も「努力」するしかない人間だったから。
自分を持ち上げてるわけじゃないですよ、自分の「努力」の度合いなんて、外からすれば大した事ないんです。あくまで自分の偏差値。

「努力しない友人」というのも、そんなのわたしの勝手な主観で、陰で努力してたかもしれない。
「自分」はどうなの?周りばかり気にして焦っていただけの高校生活だったのかも。

そんなわたしは今でもまだまだ甘い。
大学入試にしても、失敗よりも「努力がむくわれないこと」を知るのが怖かった。
「努力が無駄にならないように」努力してただけで…

はっ!長くなってしまいましたね。なんでこんなこと書いてるかって言うと、第二の挫折がやってきたからなんですよ。「挫折」なんてそんな大げさな、大した失敗でもないくせに、と何年か後の私は思うでしょうね。


私の今の壁は、「努力を惜しみなくすること」「やらない後悔よりしてから後悔」「世間体なんて気にしない」ですね。ほんとちっぽけです。はあ、情けない。


そして思うのです、


「才能」って「できる、できない」だけじゃない。「継続すること」「自覚する事」でもあると思うのです。
「結果」ばかり見て目的を見失ってしまっているわたしは、結局いつも同じところでつまずいている。
「ほんとにそこまで好きなのか」「ほんとに言うほど努力したのか」「やりたいこととは」?



「才能」。
実際存在すると思うし、そう表現するのがしっくりくるときもある。けど、その人の「努力」を打ち消されてしまう気がするから、たとえほめるときでも使わないように
してます。あと、「遺伝」ってことばもそういう意味では好きじゃないので、使わないようにしてます。


さて、私が胸をはって次に進むには、「目的」の再確認と、素早い行動に限る。

環境のせいにしてはいけない、自分でのぞむ環境に飛び込まなくては。

一歩ずつ、一歩ずつ。

分岐点

ご無沙汰しております…!

生きてます(笑)。

ご無沙汰しておいて急なのですが今のサイトを休止、または閉鎖することを考えてます。

理由は思った以上に大学生活が多忙であることと、今私が描いてるものや作ってるものの方向性が少し変わってきていることがあります。

何より、ある程度情報が新鮮であることがWeb上では大切かなと思っています。

自己表現の場として、アートが好きな方々との出会いの場として、とても思い入れがあって…2007年に開設したので、もうそんなに経ったのかあ、としみじみしているところなのですが…(笑)

でもなにかを発信はしていたいので、新しいサイトか、リニューアルか、はたまたしばらくはブログでやっていくか、なんらかの形でリスタートしたいです(*´▽`*)

結論は近いうち、今月中にはだしますが…

このサイトもひと区切り、に来てるのかもしれません。