陽炎
ショートストーリー

古傷の残る左側の手で、煙草を持ちながら、ハルさんは、ぼんやりと呟いた。

「自分の存在感が、稀薄になること、なぁい?」
「なんすか、それ」
「消えちゃう感じ、かなぁ」

ハルさんは、紫煙を吐き出しながら、言う。

「その、煙みたいに、ですか?」
「うーん、そうかも」

笑ったハルさんの影が、揺れた気がして、ドキリとする。

「ハルさんは、そこに居るじゃないですか」

絞り出すように言った。

「本当に、そうかなぁ」

紫煙だけを残して、ハルさんがいなくなってしまう気がして、俺はハルさんの手から、煙草を奪った。それを揉み消して言う。

「そんなこと、言わないでくださいよ。ハルさんはそこに居るし、ちゃんと、生きてるじゃないですか」
「生きてる、って、案外と、稀薄だと、思うんだよねぇ」
「なに、言ってるんですか」
「時々、思わない? あたし、ちゃんと、生きてるのかしら、とか。今日は、何時なのかしら、とか。あたしって、なんなのかしら、とかね」

俺は、泣きそうになりながら、笑うしかなかった。けれど、上手く、笑えなかった。

「バカなこと言わないでください。ハルさんは、生きてるし、今日は、真夏の夕方だし、ハルさんは、俺の彼女です。何時でも、俺の隣で、飄々と、笑ってくれてれば、それで、十分ですから、変なこと、考えないでくださいよ」
「そーだねぇ」

ハルさんは相変わらず、ゆらりと笑う。俺は、それ以上、かける言葉が見付からず、ハルさんを抱き締めた。

「苦しいよ、サクラくん」
「消えちゃいそうなら、俺が捕まえときますから、勝手にどっか行ったり、しないでください」

何故か、俺が、あやされるように、頭をぽんぽんと撫でられた。

すっかり、日が沈んでしまった。一雨来そうだな、と思っていたところで、ハルさんが、雨降りそうねぇ、と、何時ものように、にやにや笑っていた。それが、嬉しくて、そうですね、と、笑うと、ハルさんは、雨が嬉しいの? と、怪訝そうに、でも、笑っていた。



end
話題:SS


12/08/14  
読了  


-エムブロ-