瞼を開くと、穏やかな笑顔が視界を占めている。
「おはよう、明」
羽毛が触れるような口づけが落とされた。
「…おはよう、了」
明は小さく答え、ベッドから降りて窓を開ける。
そこには何もない。
地平線さえ見えず、ただ白い光だけが広がっている。
幾度目覚めてもそうだ。
何かがおかしい。
漠然とした違和感を締め出すように、頭の芯は朦朧としている。
ゆるゆると了に向き直った。
了はベッドに腰掛けて微笑んだまま、明の両手を取る。
そしてそれを、己の首に導いた。
白く、細い喉。
そこに明は、そっと指を食い込ませる。
了が眼を閉じた。
ゆっくりと、じわじわと、力を込めていく。
く、と小さな声が漏れるのが聞こえた。
へし折らなければいけない。
自分の何処かが、そう命じている。
殺せ。
壊せ。
息の根を止めろ。
終わらせろ。
もう二度と、繰り返さないように。
…何を?
整った顔が歪んだ。
だがそれは苦悶というより、恍惚の色が濃い。
みしり。
嫌な感触が伝わってきた瞬間、明は手を離した。
息を荒げながら、了は立ち尽くす明を見上げている。
その眼から、涙が溢れた。
俯いて嗚咽を漏らす了を、明は抱き締める。
震える腕が背に縋りつき、爪を立てた。
「…明」
了はしゃくり上げながら、何度も明の名を呟いた。
明は黙って、その体をきつく抱き続けている。
何もかも偽物だ。
ただひとつ、自分の腕の中で赤子のように泣きじゃくる男への愛おしさだけが本物。
そんな気がする。
ここには何もない。
ここには、二人だけしかいない。
サイコジェニーの精神操作+ゼノンの亜空間in地獄、みたいな。
了が外道だ…
了は白いソファに身を沈め、明の横顔を眺めている。
「で、こないだ撫でてやった奴らが金魚のフンみてえにくっついてくんだよ。兄貴兄貴って、鬱陶しいったらありゃしねえ」
そう言いながら缶コーラを飲む明の眼は、口調とは裏腹に楽しそうだった。
了は軽く肩を竦めて応える。
「お前の人望って奴じゃないのか」
「かもな」
明は、了に向き直って笑った。
ああ、変わらない。
そう思う。
人の体ではなくなっても。この優しい眼差しは、了が良く知っている明だ。
安堵に似た溜息を漏らした了を見詰める明の笑みが、不意に失せた。
視線が絡み合った。
無言の間を暫く置いて、ゆっくりと顔が近付いてくる。
了は瞬きも忘れたまま、動けない。
唇が触れる寸前、明の顔は横に逸れた。
「…ひと口くれよ」
右手がぎこちなく、テーブルの缶コーヒーに伸ばされる。
「…ああ」
疼く心臓を宥めるのに必死な了の声は、押し殺したように低かった。
己に言い聞かせる。
これで良い。
触れればきっと、壊れてしまう。大切な、取り返しのつかない何かが。
明を見なくて済むように、了は床に視線を落とす。
そしてそっと、自分の膝に爪を立てた。
この心地好い温もりを、犠牲にするとしても。
壊す勇気が、欲しかった。
イキシア:Ixia hybrida…槍水仙。花言葉『秘めた恋』