話題:SS

●期限付き悪魔

切ないな、と思った。
なんだか切ない。
彼が大好きで、幸せで、傷ついたから。

だから、切ない。



















悪魔だ。期限付きの悪魔。
あたしに赤い爪痕を立てて、それで笑顔で何も無かったように消えていくんだろうな。ズルいと思った。


「ひろきっち!」

「おう、森本。って先生って呼べっていつも言ってるだろ。……もう片割れは?」

「未紗?具合悪いんだってー」

「、そう。…じゃあ俺も手伝って持っていくわ」



俺は小さくため息と取られないような息を吐いて、今日の配布物の半分を持った。未紗に持たせようとしていた包みだ。ずしりと重い。正直、こんなに重いとは思わなかった。未紗はか弱いから、もし持たせたらますます嫌われただろうと思った。未紗が嫌いだったキスもハグも、自分としたら唯一の愛情表現だったから。



「ヤだ」



どすりと小包が床に落ちた。一昨日の未紗と森本の声が重なったのだ。慌てて持ち直して、森本の方へ頭を向ける。



「先生と今日でお別れするの、ヤだな」

「ぶ」

「ひろきっちもヤでしょ?未紗と別れるの」

「あはは、俺は…─、って、え。未紗?」

「好きなんでしょ、知ってる」

「─…」

「…」

「嫌われてる」

「え」

「彼女には、嫌われてる」

「…」








●雨の町

雨の町。




台風がきた。本当に久し振りだ。激しい雨が町中に降り注いで、道路が白く見えた。遠くの町並みも霞んでいる。町全体が白のベールで包まれたようだ。雨汰。そう母が名付けた。否父だったか。僕は感謝する。雨の町はとても綺麗だ。



●タラコハサ



「タラコはさー」




振り返ると深津先輩は、少しつまらなそうな顔をして、私を見ていた。
「痕跡を消すのが好きだね」



「…………へ」



遊びに来て散らかった部屋を片付けてるだけなんですが。
痕跡…と言えば見ようによってはそうかもしれない。私は他人の部屋に髪の毛一本残るのさえ気にしてしまっていたから。

つまらなそうに裸足になって爪を切っていた視線がこちらを向く。心なしか唇が尖っている。可愛い。鋭い先輩の眼がこちらを向いて、視線が交錯する。自分の顔の皮膚が、望んでいないのに真っ赤に染まるのを感じた。


「クス………不細工なタラコ」


笑った。深津先輩の笑顔に相変わらず弱いのを知ってか知らずか、逃げ腰になる私の指を掴む。煩く鳴っていた掃除機が床を捕らえられず静かになって、自分の脈拍の速さが上がった。


「ふ、深津せんぱ…」

「なあ、わざとなワケ。毎回綺麗にしてくのって。俺が綺麗な部屋に一人になって、すぐにタラコに会いたくなっちゃうのを知ってて?」


驚いてまじまじと見上げる。


「ほ、ほんとですか…?」

「この部屋、もしかしたら鑑査入ってもタラコが来たってわからないんじゃない?まさか殺人事件なんか起こそうとしてる」

「ち、違います…」


困ってしまう。ふい打ちだ。"また会いたくなる"って言葉が思ったより嬉しい。掃除機がアピールするようにウィーンと小さく高い音を立てた。いけない、付けっぱなしだ。質問をうまくかわされたことに気づかず、ぶんぶんと首をふる。


「…ここに痕、残させてくれないし」


呟くように話しながら、深津先輩が私の首根あたりをなぞる。顔に出さないようにと頑張るほど、真顔になっていくのを感じた。「素直じゃないね」と深津先輩。




●音響効果

凄まじい勢いで感性を消費しようと、梢はヴァイオリンを弾いた。学生オーケストラでファーストヴァイオリンの表を務める梢の高い音色が、夏の日常を突っ切った気がした。青い空に平然とある入道雲が、梢のナカの夏だった。むしろそれだけが夏だった。その空と、その空の下を自転車で駆け抜ける時間を持てれば、梢はその年夏を感じることができた。
黒いTシャツに灰色にダメージ加工された長パンツを穿いて、梢はヴァイオリンを引き続けた。その音色は、梢の体力と感性と心を消費してくれた。


「何にも見えてない」


携帯が鳴った。その言葉は携帯の着うたが囀ずった。梢は黙ってヴァイオリンを起き、クーラーのスイッチを着けた。1時間以上、余裕に引き続けている。汗がだらだらと額を伝った。楽器の顎当てにその滴が流れ着いていないのは、楽器との間にタオルを挟んでいたからだった。クーラーをつけそのままのリズムで、携帯をとる。メールだと思ったのは電話だった。


「梢」



低血圧の高音質が耳に響いた。この電話はこの音色しか知らないんだ。梢、ともう一度電話が呼ぶ。私は宵、と返した。ヨイ。本当は夜依。




●恋がしたい

恋がしたい、と考えたのは七月の初め。ちょうど七夕まつりの頃。夢の中で恋をして、「恋がしたい」と朝起き抜けに口ずさんだ。隣に寝ていたはずの友人は消えていて、私は布団上に残る温度を感じながら、時計を手にとる。AM3:25。まだ日も上っていないのに。
布団からでた次の瞬間には、隣の部屋から声が聞こえた。隣は、兄の部屋だった。私はカーディガンを羽織りこっそり部屋を出て、自分のマンションからこっそりと出た。今頃あの子は兄と何を話しているのだろう。
近くのコンビニにいつも通り、足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ〜」


適当に呟かれる台詞が、店内に流れる。
好きな雑誌をさらりと立ち読みして、きつい炭酸水のペットボトルを手にとる。
店員のお兄さんは訝しげに私を見て、適当にシールを貼って清算した。「ありがとうございました〜」



私はマンションの前の花壇に腰を降ろした。炭酸水をあけて、溢れ出さないうちに口に注ぎ込んだ。炭酸は喉を刺激し、胃の中で踊った。





「ねー、雪子ちゃんてば、起きてよ〜」


肩を揺らしたのは、早苗だった。早苗は、あたかも一晩中そこにいたかのように、下半身にはまだ布団をかけながら私を揺さぶっていた。


「おはよう。朝早いね、早苗」

「雪子ちゃんが遅いんだって。今日の授業、どうするのよ。フケるの?」


ノーメイクの早苗にみいっていると、何よ、と頬を軽くつままれた。



新入りのお兄さんだった、と私は思い返した。辞めてしまったんだろうか。恋がしたい、というよりも恋に落ちたい、という気持ちだったのかもしれない。もうちょっとで落ちかけていたのに。例え叶わない恋でも、今は落ちてしまいたかった。

見慣れないノーメイクの早苗は本当に違う女のようだった。それでつい眺めてしまった。「早苗は恋してるの?」早苗の薄くなった顔立ちをぼんやりと見ながら、私は言う。早苗は少し思案して、可愛く首を傾げた。「さあ…。でも近づきたい人はいる」私は早苗をまじまじと見つめた。近づきたい人。それは恋愛キーワードとして扱っていいのかどうか。曖昧で、ポジティブな言葉だと思う。彼女は満足げに笑う。多分どんな言葉よりもしっくり来たのだ。私は落ちたいと思った。

授業中に、自分の机の床を囲むまあるい円が突如現れて、落ちてしまわないかな、と考える。床は抜け、重みで一階の教室まで私を運び、そして私は何事もなかったように学校から逃げる。そんな妄想を、何度も何度もこれまで繰り返していた。


「すみません」



コンビニの彼だ。声をかけられて顔を上げた瞬間、脳内でそんなキーワードが瞬時に浮かび固まった。

「え」

「あー…、覚えてないですよね。そこのコンビニで働いてたんですけど、

「あ」

「深夜よく来てましたよね?今、いいですか」

「、…」


落ちたいと思った。深く、深く。彼に私はずっとそれを期待していて、






「─…たらこ」

ギシと鳴った気がした。
手首が痛い。見知った手のひらの冷たさ。


「深「行くぞ」

「え、ちょっ。あんた誰だよ」


目の前に現れた先輩の後ろ姿が、私の手首と結合して彼の目の前から連れ去られてゆく。私が落ちたいのは、深津先輩ではないのに。手首を捕まれながら、周りに人がいないか確認する。コンビニの彼を振り向けば、嫌そうな顔のまま立ち尽くしていた。目が合う。意思は、読み取れなかった。きっと嫌われた。嫌われてしまった。思っているより傷ついている事実が、さらに自分を傷つけていた。
それでも私はこの人に抗えない。最初に唇を奪われたあの瞬間から、何かの呪いのように、私はこの人に囚われている。手首がキシリと痛む。


「鱈子。あの人誰」

「…」



それは、絶対教えなくてはいけないことなのか。少し悩み息を吸い込む。手首、話してもらえないだろうか。痛みが骨髄を壊している。痛い。痛い。


「センパイ、痛いです……」


静かに呟く。黙れば黙るほど痛みが強くなるのがわかったからだ。深津先輩が握りを強めているだけなのだけど。


「…じゃあ答えて」


ぎり、と今度は下に向けていた腕を無理に振り上げた。途端、涙が少しでる。


「っ、い゛」

「答えて」

「コンビニの店員…!」



ぱ、と離れた。あっけない。
この人は自分を人間だとも思っていないようだ。人形のように軽く扱う。強く低く短い単語で、簡単に私を左右できるのだから当たり前かもしれないと私は思った。