元々不規則な生活をしていた植島にとって、宇宙船での生活に適応するのは人よりも幾分か早い方だった。外は相変わらず明るいが、不思議と眠気も鈍くなっていたし、船内にいればどうということもない。問題は腹の空き具合で、一日八時間という頓珍漢な括りの中、一食で済ませる船員達もいるのにも関わらず、植島がキッチンに顔を出す頻度は日に三度を越えていた。特別に大食らい、という訳ではなかったが、煙草の本数も限られている中、何かを口に含んでいない時間というのはやけに長く感じられたのだった。
一つ目の星について数日が経ち、船内を探検する者と船外に飛び出す者とが丁度交代する頃合いになり、改めての自己紹介や挨拶などを一通り済ませたところで、足は自然とキッチンへと向かっていた。最早癖だ。昨日は鍋だったか、雑炊でもあるといいけど。雑炊は良い。見た目の割に実物は少量で、それでいて旨味がたっぷり染みて満足度も高い。
ネギを刻んでポン酢をかけて、と完全に飯の気持ちになっていた鼻に曲がり角の先から漂ってきたのは、雑炊とほぼ対極と言っても良い程のバターの香りだった。途端に脳内でほかほかと湯気をたてていたカニ雑炊が霧散していく。あっほぐした身が。とろとろたまごが。代わりに頭の中に現れた仁王立ち、いや仁王座りするケーキやクッキー、キャンディーの群れ。あ、これはこれで案外イケるな。そもそも小腹しか空いてへんかったし。
脳内会議に決着をつけつつ入り口から顔を覗かせると、自分とよく似た背丈の少女が丁度オーブンから天板を取り出すところだったので、小走りに近くにあった布巾を手にとって支えた。
「スーツのお兄さん!」
「植島さん、な。重いやろ、代わるわ」
悪いですよ、とあたふたする少女は、普段相手にする女性達よりも余程素直で、接している此方の毒気が抜けるようだった。
社会に飛び込んで五年も過ぎれば本音と建前の使い方、更に言えば本音の演出の上手いやつがのし上がっていくもので、溢す言葉の一つにも気を遣ってしまうのは社会人の悲しい性と言える。
そんなことを気にしなくても良い、もしかしたら払う余裕もないのかもしれないくらいの若人と言葉を交わすのは、端的に言って新鮮だったし、好ましいとも思えた。
「何笑ってるんですか、面白いこと言いました?」
「いや?若いってええなぁと」
「おじさんくさい...お兄さ、植島さんも若いんじゃ?派手目のスーツよく着てますし」
「それ俺が若作りやったらどないするんな」
「えっ」
「ウソウソ、まぁ三十路ラインはまだ飛び越えてないから若人ってことにしとこか。お仲間やでイェーイ」
「いぇーい...?」
結局何歳なの...?とあらぬ方向に目をやる少女に、ベルトの上に乗る腹の肉が気になるあたりです、とはついぞ言えなかった。
追及を受ける前に、と天板から焼き上がったばかりのそれをつまみ上げると、まだ乾ききっていない油分が指に張り付く。当然摘んだままでは火傷してしまう為台上の皿に移し替え、甘い香りの充満する部屋で只管に作業を続ける。暇だったからというのも理由の一つだし、実のところ手伝いをすることで分け前を貰おう、という下心の方が大きかった。
薄い茶色と濃い茶色。色の違いは味の違いでもあるのだろう。色々な形が組み合わさったそれは、恐らく四足歩行の何かを表しているのだとは思うが、焼いている途中に変形してしまったのか、それとも初めからそういう形だったのか、判別がつかない。唯一長い部分を持った何か。これなら何とかわかる。
「...あー...キリンか。可愛いなぁ」
「...ゾウです...」
両手で顔を覆う少女にマジで?と聞き返すのは慈悲の欠片もない人間だろう。究極の接客業とも言われる職に就いている男でも、いや、だからこそ、沈黙が時には金となることを知っていた。
誰かが作り置いてくれていたアイスティーを片手に隣り合いシンクにもたれかかる。設備の整った船内ではあるが、キッチンに長時間居座る人間はあまりいないと判断されているのか、椅子は見当たらなかった。明日あたりにでも声を掛けるか、あのマスコット船長に。脳内やることリストの端っこに書きつけながらさく、と冷えたクッキーを口に運んだ。
「んん、使い慣れないもので作るとやっぱりちょっと違いが出ちゃうなぁ」
「そう?まぁ確かによぉお店で食べるやつとか、船で貰ったやつとかと比べるとちょっと甘さ強い感はあるけど。俺は好きやなぁ」
「なら良かったですけど...意外。結構男性だと甘すぎるものは苦手って人も多いから、植島さんもそうなんだと思ってました」
「まぁ胃もたれはするけど。せやけどなんていうんかなぁ、時々食べるもんやからこそ、キツめのいきたかったりとかあるやん?」
「そういうものですか?」
そういうもんよ、と頷き返す。一先ずの感想を貰って安心したのか、先程よりも進みの早い指の動きを横目に、女性と二人でキッチンに立つこともそうそうないな、と少し味の薄くなったアイスティーを啜った。
確かアレは7歳の誕生日だったか、いつもより豪勢な夕飯を終え、風呂も終えたにもかかわらず台所にはずっと灯りがついていた。
シンクに向き合う肩が震えていたのを覚えている。
「お母さん、もう眠たい...」
「あぁ圭、ごめん、ごめんなぁ、あとちょっとだけ待ってな、やっとクリームが上手く絞れるようになってん。息子の誕生日は手作りのケーキ、お母さんの役目やろ?ごめんなぁ、お母さんお菓子だけは苦手でなぁ、日付変わるまでには作るから、お願いやから待って」
振り向きもせず一心不乱にスポンジの周囲をいったりきたりする母の傍ら、分離したクリームや焼け焦げたスポンジがない混ぜになって排水溝に流れ込むのを子供ながらに勿体無い、と溢した。
結局あの日は一切れだけをなんとか口に含んで、歯磨きもせずに翌日寝坊したんやっけか。翌年からは夕飯が豪勢な方が嬉しい、と駄々を捏ねて簡素にしてもらったのを覚えている。
天板一枚分、数にして二十枚。従姉妹の分は先に寄り分けてあるから、と成人近い人間が二人で食べれば二十分と経たずに全て胃の中に収まってしまった。ご馳走様、と片付けを手伝えば良いものを、どうにかあと一枚出てこないものかと意地汚く皿の上を睨め付けたところで質量保存の法則が覆ることはない。台上を付近が拭っていく。
「あっという間でしたね」
「せやね、美味しかったんに残念やわぁ」
「それはどうも、お粗末様でした。...今度作る時はもう少し量多めに作らなきゃ。またおやつタイム、とりましょうね!」
"また"。口にされたその言葉の軽さが、未練がましく彷徨いていた視線を上げさせた。...そうか、また。また、が、あるんやな。
たったの二文字心の中で何度も呟けば、いつの間にか惜しいという気持ちも吹き飛んでいた。
甘い香りもクッキーも、オーブンの熱も消えつつあったが、それでも。はらを満たす熱はじわりと残っている。今夜はいつもよりよく寝付ける気がした。