本の感想を綴るのは久方ぶりの気がします詩夷珈です。
一週間に一冊くらいは読んでるのは読んでるんですが(たぶん)、感想を言葉にしよう、とは思えなかったせいですかね。
レポートとか、感想とか、講義に関係することは否が応にも言葉にしないといけないので自分の中のことを言葉にすることをさぼっていたわけではないのですが…それでも、自分の中にあることを言葉にしようとする意識がどこかに行っていました。
不思議ですね。あんなにも言葉にすることが大好きだった私なのに。
言葉にするよりも、手を動かして絵を描いたり色を塗ったりすることばかり考えていました。脳内が音や文章を読む声ではなく、色や映像が埋め尽くされていたことが長く、前はすらすら浮かんでいた言葉たちが、ぜんぜん浮かんでこなくなりました。鍛えずにそのままにしていたら衰えていくのは筋肉と同じですね。1日サボると3日やらないことと同じ、と(アレは楽器でしたけど)中学の先輩に言われたのを覚えています。本当に、その通りですね。
「絵」という時期が長かったので、「文」というやり方を半ば忘れかけていましたけれど、また最近言葉が浮かんできたわけで、すぐに勘が取り戻せるわけではないですけど、やらないことが現状をよくするわけではないのなら、やるに越したこともないわけで、パソコンにちらっと向かってみた次第です。
(おかげか、はたまた。今度は絵が描けなくなりました。描けはしますけれど、半ばスランプみたいな、何を描いても正解とは思えなくて、満足いく線とか形を描けなくなりました。自分の絵大嫌い期って言ってますけど、どうやら私は「絵」も「文」も、って同時並行にできない脳内構造のようです。)
腕を組んだときと、指を組んだとき。左右のどちらの腕が上にくるかで、その人の感じ方と表し方がわかる、なんてありますよね。(医学的には血液型診断と一緒で証明されてはいないらしいですけどね)私は腕を組んだときは右。指を組んだときは左が上にきます。右とは右脳。直観的とか言葉でなく感覚で物事を受け取って、左脳なので、理論的に言語的に物事をアウトプットする傾向にあるようです。
もし指を組んだときに右が上に来ていたのなら、私はここまで「文」という行為に心を傾けていたのでしょうか。
わかりません。わかりませんけれど、わからないくらい、私にとって自分の内を「文」にするという行為は大切なもののはずなんです。それが、「絵」という別の表わし方を模索するうちに、元の「文」という行為へ戻る帰り道がわからなくなりました。不思議ですね、私は私でしかないのに、『私』を表すために歩いたせいで私を見失ってしまうのですから。
不思議の国で白兎を追いかけるうち、帰り道がわからず迷子になったアリスは言いました。
『迷子になったのならそこで待っているのが一番だって言うじゃない?』
なんて。そこはどこで、アリスが誰で、真っ暗闇のなか、泣きそうになりながら。
アリスは、アリスの中のチェシャ猫が道を指し示しますけれど、現実はそうはいきません。見失ってしまったものは、見失ってしまったまま、チェシャ猫はどこにもおらず、待っているだけでは決してもう戻らない。「絵」を描いていたときの私の中の言葉が、「文」としてどこにも残されていないのと同じく。
「迷子と迷子のアクセサリー店」も、帰り道を見失ってしまった迷子が登場します。帰り道はどこで、そもそもここはどこで、自分は誰であるかもわからないまま。そこで迷子の彼は、すぐそこにあった扉を開けた不思議なお店でシオンという少年としゃべる狼であるマルに出会います。そして迷子の彼は、彼らから「お前が何処から来て何処へ行くのか当ててやろう」と言われ、奇妙なゲームが始まるのです。
迷子である彼、メイは自分がいた『国』への帰り道がわからなくなってしまいました。扉を開けても何もなく、虚無が広がり二の足を踏むばかり。おかしいですよね?扉とは内と外を別けるもの、扉を開けたすぐそこは外でしかないはず。けれどその、内と外、という概念すら誰かによっては違うもの、いうなれば十人十色、つまりは主観によってなにもかもが違ってしまうものなのです。
帰り道を見失ってしまったメイにとって、帰り道はもうどこにもない。メイにシオンは言います。「思い出せ。そうすれば、扉はお前を在るべき世界へ帰してくれる。」と。
何処から来て何処へ行くのか。それはメイだけでなく、自分という存在すら曖昧な私たちにも言えることかもしれません。少なくとも、私は自分が何処から来て何処へ行くのか、自分がどんな人間で、どういう人間なのか言うことはできません。迷子のメイと何が違うというのでしょう?
私という人間を探せば探すほどに、見失ってしまうものがあります。私という人間を形作るすべてが、本当に私である、という保証もどこにもありません。チェシャ猫はにんまりと笑って、己の身体を消すばかり。もしかしたら確かなものなど、この目に映る身体でしかないとしても。それでも。ただ、待っているだけでは、動き出さなければ、見失ってしまった帰り道を思い出すことなどできるはずもないのです。
メイはシオンのアクセサリー店で、いろんな人と出会います。いろんな人と出会い、関わることで、メイという人間は何かを見つけて心に仕舞っていきます。良いこと悪いこと、それは何でどうして、感じたすべてはメイだけのものです。
探せば探すだけ、見つかるもの。思い出せるもの。見失ってしまったものは、見失ってしまったときのままに戻ることはきっとできないけれど。アリスが姉に夢物語を語るように、私が改めて「文」という行為を大切だと感じれたように、帰り道を探す時間もまた、それは新たな自分だけの時間です。
帰り道を見失い、自分がなにかもわからなくなっても、きっと無駄な時間などどこにもないのでしょう。待つだけでなく、動きだせば見つかるかもしれない新しいなにか。ゆっくりと深呼吸でもして、迷子になったことを嘆くのでなく、迷子になったことこそ見つめて、どこかへ続く『扉』を開けるのも良いかもしれません。メイがシオンとマルに出会えたように、新しい出会いが『扉』には必ずあるはずだと思うから。
執事と同じように、これもつづきが出ればなぁ、なんて思います。
メイもシオンもいいな、って思いますけど、個人的にはマルがお気に入り。