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桶狭間の戦い紛い物

2013.9.22 19:29 Sun 
桶狭間の戦と徳川家康 

徳川家 と 徳川家康
戦国時代を生き抜き、天下を統一して 265 年間もの長きに渡った「徳川幕府」を創設、「江戸時代」を築いた戦国大名 「徳川家康」。
知らない人はいない、超有名人ですね。
徳川家は元々は 「松平家」 という家柄で、「三河(現在の愛知県東部)」を拠点としていました。
しかし、戦国時代における 松平家 は当初は一地方の弱小勢力に過ぎず、尾張の大名 「織田家」、駿河・遠江の大名 「今川家」 の間で揺れ動いていました。
そのため、松平家の跡取りである 「松平元康(後の徳川家康)」 は 松平家 を支配するための道具として利用され、織田家と今川家の間を「
人質」として行ったり来たりしていました。
時には、今川家に運ばれる途中、500 文で 織田家 に売られたりもしていたそうです。
そんな人質だった幼少時代の元康(家康)は、その大半を 今川家 で過ごしていました。
ただ、織田家 にいた頃には、若い頃の織田信長 と遊んだりもしていたと言われています。
しかし 1560 年、一大転機が訪れます。 「桶狭間の戦い」です。
大軍を率いて京都を目指した今川家の今川義元 が、桶狭間の地で 織田信長の急襲に合い戦死。
今川軍は壊滅して遠江に撤退し、そのまま大混乱に陥ったのです。
この時、松平元康(徳川家康)の率いる三河の軍勢は、今川軍の一部隊として活動をしていましたが、今川義元の戦死の報告を受けて拠点である三河の岡崎城に帰還。
そのまま 今川家 から独立する事となります。
その後、松平元康 は 織田信長 と同盟を結び、この頃に名前を 「徳川家康」 に改めます。
この織田家と徳川家の同盟は後世 「清洲同盟」 と呼ばれています。
信長 と同盟を結んだ後は、織田家 が北の斉藤家 を攻撃する一方で、徳川家 はまず三河の今川家の残存勢力を吸収・制圧しつつ、三河の支配を固め始めます。
しかし三河には、「一向宗」 という宗教の僧侶と信者が結託した独自の勢力 「一向一揆」 が大きな規模で存在しており、まずはこれに苦しめられる事になりました。
一時は一向一揆の軍勢に徳川家の城 「岡崎城」 が包囲され、滅亡の危機にも瀕しています。
桶狭間の戦いから4年後、なんとか徳川家康は一揆軍を鎮圧、ようやく三河の国を支配する事となります。さて・・・ 「信長の野望 Online」 では、徳川 家康 は独自の勢力として三河に存在していますが、しかし今川家にも 「今川義元」 が生存しています。
これは実際にはあり得ない事なので、この辺りは 「信長の野望 Online」 は 「フィクション」 になっていると言えますね。
斉藤家 の 「斉藤道三」 も、家康が三河で独立した頃にはすでに死んでいるはずなので、どちらかと言うと 徳川家 だけが、他の国より 10 年ぐらい後の設定になっている感じです。
この辺は、逆に if 戦記として面白い設定かもしれませんね。
少し話がそれましたが・・・ 三河を支配した 徳川家康 はその後、今川家 への進攻を開始します。
すでに 今川家 は 今川義元 の亡き後 弱体化しており、徳川軍は 今川家 の支配地をどんどん攻め落としていきました。
この頃には、同じく 今川家 に進軍をしていた 武田家 と同盟も結んでいます。
その一方で、織田家 の近畿地方への進軍に、家康 自ら軍を率いて何度も援軍に向かっています。
徳川家の援軍も得た織田家はどんどん近畿地方を制圧、織田信長は戦国の覇者となっていきました。
しかし今川家の滅亡後、武田家が京都への上洛(進軍)を開始したため、織田家・徳川家 の両国は 武田家 と対立する事となります。
そして 武田家 の軍勢は 徳川領 に進攻してきますが、当初、武田軍は徳川軍を無視して西へ向かおうとしました。
そのため 徳川家康 は、「無視すんな、このヤロー!」 という感じで武田軍に正面きって向かっていき、戦いを挑みましたが・・・
逆に 武田信玄 にボコボコに敗退。
この戦いは 「三方ヶ原の戦い」 と呼ばれ、家康はこの時、自分の行為を恥じてその姿を絵に描かせ後の教訓としてそれを飾ったと言われています・・・
ただ後に 武田軍 に勇敢に向かって行ったとして、信長や他の大名からは称えられる事となりました。
その後、武田信玄 は上洛の途上で病死。
そのあとも 徳川家 は 武田家 と一進一退の攻防を続けていましたが、1575 年、「長篠の戦い」 で 織田軍 と共に鉄砲隊で 武田家 の騎馬隊を破ると、そのまま 武田家 は衰退して滅亡。
徳川家 は 武田家 の支配地を占領していきます。
そして、 1582年、2度目の転機が訪れます。 「本能寺の変」です。
京都の本能寺というお寺に宿泊中の 織田信長 を、家臣の「明智光秀」が突然急襲!
兵を率いていなかった 信長 は 光秀 の軍に討たれ、あえなく戦死してしまいます!
この時、徳川家康 も兵のいない状態で京都に宿泊しており、当日は堺(大阪)に観光に出かけていたため、明智光秀 の追っ手に追われて窮地に立たされてしまいます。
しかしお供の伊賀忍者 「服部半蔵」 が周辺の忍者に救援を要請、忍者たちが伊賀の山地を越える三河までの脱出路を確保したためこの危機を逃れます。
この逃避行は、「神君 伊賀越え」 として後の世に伝えられています。
危機を脱出した 家康 は兵を率いて京都に戻ろうとしますが、すでに 明智光秀 は 「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」 によって討たれていたため、まずは元 武田家 の領地を制圧して力を蓄えます。
そして2年後・・・
織田信長 亡き後の 織田家 の実権は 「豊臣秀吉」 が掌握しつつありましたが、織田信長 の次男 「織田信雄」 も自分が後継者だと主張しており、徳川家康 はこの 織田信雄 と同盟を結んで秀吉の軍と戦う事になります。
この戦いは 「小牧・長久手の戦い」 と呼ばれ、3倍以上の兵力を持つ秀吉軍を、徳川軍が破った戦いとして有名ですが・・・
結局、「織田信雄」 が勝手に 豊臣秀吉 と講和してしまったため、家康 も 秀吉側 からの講和を受け入れる事となり、双方は和睦。
そしてこれ以後、事実上、徳川家康は豊臣秀吉の臣下となる事になります。
その後の 徳川家康 は、豊臣秀吉 に忠実に仕えることになります。
後に 家康 が三河ではなく、江戸に幕府を開いたのも、この頃に秀吉に関東に移住するよう命じられたからですが、特に反対もせず快諾しています。
信長に対しても、当初は対等の同盟であったにも関わらず、後に平伏するようになるので、人の下に立つのを良しとする気風があったのかもしれません。
そして天下は 「豊臣秀吉」 によって統一され、一時的に平和な世の中を迎えるのですが・・・
時が経ち、豊臣秀吉が病死した後、徳川家康は豊臣政権に反するようになります。
これは、豊臣政権 の重臣であった 「石田三成」 と 家康 が不仲だったことから始まったものですが、石田三成 は他の多くの武将からも嫌われていて、その影響で豊臣家は内部分裂を起こしていたため、石田三成 を嫌う武将達が 家康 に接近。
これによって 豊臣家 の内部が、「石田三成派」 と 「徳川家康派」 に二分される事になります。
そして、すでに豊臣政権下で重要な地位にあった家康は、諸国の大名の支持も取り付け、急激に秀吉亡き後に支配力を伸ばそうとしました。
これに対して 「石田三成」 は危機感を抱くようになり、両者の対立は決定的となっていきます。
そしてある日、徳川家康 が 「要請に応じなかった 上杉家 を討伐する」 と称して出陣した隙に、石田三成は 豊臣家 に忠誠を誓う大名家に集結を呼びかけ、
徳川討伐の兵を挙げます!
しかし 徳川家康 も最初からその動きを読んでいて、味方になった大名に集結を呼びかけます。
こうして、両軍が「関ヶ原」の地で戦う事になります。
この 「関ヶ原の戦い」 は、当初は 石田三成 の西軍が有利でしたが、西軍 に参加した武将には 徳川家康 に内通している者も多かった
ため、次第に戦況は一進一退になっていきます。
しかし両者から誘いを受けていて、戦いが始まってもどっちつかずの状態だった西軍の「小早川秀秋」が、東軍・徳川家康 からの砲撃に驚いて東軍に寝返ったために、戦況は一変!
動向を伺っていた他の西軍の武将達もそれを見て次々と東軍に寝返り始め、そのまま徳川家康の率いる東軍の勝利となりました。
関ヶ原の戦いは、各陣営の 「協力者」 同士の戦いであったため、双方の説得工作や寝返り工作などによって、それぞれの武将が微妙な立場となっていたようです。
結局、それを突いて寝返り工作を多方面にかけていた 徳川家 の方が、最終的に勝利を得る事になったようですね。
西軍の大将 「石田三成」 という人は敵が多く、他の豊臣家の武将たちから暗殺されそうになったりもしていました。
逆に 徳川家康 は八方美人な性格で、目上にも目下にも評判が良かったため、結局これが関ヶ原の勝敗の決め手となったようです。
この天下分け目の「関ヶ原の戦い」によって、徳川家康 は諸国の大名のトップとなり、江戸に幕府を開き、後に「将軍」となることになります。
ここから、長い 「江戸時代」 が始まることになる訳ですね。
それから 10 数年後・・・
徳川家康は、豊臣家 から送られた「鐘」に「国家安康」と書かれていたのを見て、「これは [家康] の文字を分けて呪っているものだ!
」という無茶なイチャモンをつけて、まだ大坂に残っていた 「豊臣家」 に侵攻します。
これは、言いがかりもいいトコな訳ですが・・・ ^^;
本当はただの動機付けに過ぎず、いつまで経っても 徳川家 を 「天下人」 として認めず、家康の提示した度重なる講和案も突っぱね続け、豊臣家 が 徳川家 と対等(もしくは上)だと言い続けていた豊臣家(
と言うより、豊臣家の実権を握っていた「淀君」 )に対して、ついに我慢も限界に達した、というのが実際の所だったようです。
豊臣秀吉が死んだ後、豊臣家は 「豊臣秀頼」 という人が当主になっていたのですが、彼はまだ幼かったので、側近の家臣や、彼の母の 「
淀君(淀殿)」 が付き人として政治を行っていました。
そして 「関ヶ原の戦い」で 石田三成 などの豊臣家の家臣が死んだため、「淀君」 が豊臣家のナンバー1となったのですが・・・
彼女は 「我が子かわいさ」 のあまり、豊臣秀頼こそが天下人という姿勢を崩さず、秀頼を過保護に育て、側近を気に入った者だけで固め、気に入らない者も遠ざけてしまいました。
このため、もはや 豊臣家 が 徳川家 に従う事はなかったのです・・・
こうして、徳川家康 は 豊臣家 に進軍を開始、「大阪 夏の陣」 と 「冬の陣」 で豊臣家の大坂城を攻撃し、豊臣家は滅亡。
これで本当に戦国時代は終わりを告げ、日本は 「天下泰平の世」 となる事になります・・・
翌年、家康 はタイのテンプラを食べ過ぎてダウン。 享年、74 才。
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス」。 有名な、家康の性格を現した句ですね。
徳川家康 は最終的には天下を取りましたが、実際に彼が 天下取り に向かって具体的に動き出したのは、「関ヶ原の戦い」 の起こるほんの数年前からです。
それまではずっと、織田信長 や 豊臣秀吉 に臣従し、彼らの天下を支持してきました。
大名選択の際に 徳川家 に出てくる謎の文字 「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」は、戦乱の世のような乱れた世界を嫌い、平穏な浄土を求める
、という意味の言葉で、徳川家の旗印となっていた言葉です。
これを旗印にした彼がそれを実現したことは、戦国の流れの行き着く所だったのかも知れません・・・
しかし 信On で 徳川家 が 欣求浄土 をもたらせるかどうかは、プレイヤー次第ですね。

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2013.7.24 17:57 Wed 
短編歴史小説続太閤記後編 

「前回の、あらすじ。織田信長に、気に入られた、木下藤吉郎は、寧々と、めでたく結ばれた、木下藤吉郎は、織田信長殿の、天下制覇を、目指して、浅井長政殿との同盟を、成功させたが、浅井長政は、思わぬところで、裏切り、織田信長殿は、浅井長政を、裏切り者として処罰した。御市様は、木下藤吉郎が、小谷城を攻めた、時に、助け出した。織田信長殿は、安土城建築して、愈々、天下制覇に、近くなった。」




織田信長………………「わしの天下制覇の、そう仕上げは、中国の毛利じゃあ。」




柴田勝家………………「恐れながら、中国の毛利は、明智光秀殿が、適任かと思いますが。」




織田信長………………「嫌、中国の毛利は、サルに、やらせる。」



織田信長………………「中国の毛利は、なんと言っても、最大の敵じゃあ。良いなぁ。サル。慎重に、いけよ。」




木下藤吉郎……………「木下藤吉郎は、名前を、改めてて、いた、丹羽長秀様の、飛ぶ為の、羽、柴田勝家様の、柴刈りの、柴を、貰って。「羽柴秀吉と、改めた。」」




羽柴秀吉………………「織田信長様、わしが、見事、中国の毛利を、攻めた暁には、御市様を、側室に、頂きたいのですが、今度は、大丈夫ですよね。」




織田信長………………「成らぬ、御市は、柴田勝家に、嫁がせる。」




羽柴秀吉………………「また柴田勝家様ですか、何故ですか、立てた手柄の、方では、既に、私の方が、勝っておりますが。」




織田信長………………「手柄、手柄って、お前は、手柄の為に、この、織田信長に、遣えているのか。手柄は、誰もが、求めるものじゃあ。良いなぁ。サル。」




羽柴秀吉………………「判り申した。中国の毛利は、このサルが、攻めて来ます。」




「羽柴秀吉は、毛利、の土地の地形に、目をやった。すると。良し、備中高松城水攻めじゃあ。という。」




羽柴秀吉………………「清水宗治目を、どっぷりと、水攻めに、してやるわい。」




蜂須賀小六……………「水攻めに、するという事ですね。しかし、近隣の民、百姓の力を借りないと、無理で、ございます。」




羽柴秀吉………………「そうじゃあのう。ここは、織田信長殿に、相談して参る。」




「羽柴秀吉は、い参じて。織田信長殿の、元へと馬を、走らせた。」




織田信長………………「成る程、それで、わしに、金子を、という訳じゃあなあ。良し、判った。金子を、渡そう。」




羽柴秀吉………………「ありがたき、幸せに、ございます。」




「羽柴秀吉は、金子を、頂くと、早速使者を、渡して。近隣の民、百姓の力を借りて。3キロの土嚢の堤防を、作る準備に、かかった。」




「近隣の民百姓に、羽柴秀吉は、こう言った。」




羽柴秀吉………………「織田信長殿は、中国の毛利を、攻めて。この日ノ本の統一という事を考えているのじゃあ。民百姓を、苦しめる。為ではない。飯は、沢山食えるし、金子も、用意してある。この秀吉を、助けてくだされ。」




民百姓…………………「秀吉様は、おら達を、助けに来てくださった。3キロの土嚢の堤防、作ろうじゃあないか。」




羽柴秀吉………………「良し良しこれで、清水宗治目を、どっぷり水攻めに出来る。」




羽柴秀吉………………「後は、雨が、降るのを、待つだけじゃあ。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎様、雨が、降る気配です。」




「というと雨が、降って来た。」




蜂須賀小六……………「雨だ、雨だ。」




羽柴秀吉………………「降れ、もっと降れ。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎様、高松城が、沈みます、あれを見てください。」




羽柴秀吉………………「清水宗治目そろそろ降参するはずじゃあ。人が、死ぬのを、待つのも、辛いのう。」




「高松城は、人工で出来た、ダムの様になって、そこに。浮かぶ島の様に見えた。」




「高松城の中では、こうなったら、傲れる織田信長に、毛利武士の意地を、見せてやろうではないか。」




「しかし、水攻めの前で、どうしようもなくなり、清水宗治は、船で、城を出て。船の上で、切腹をした。」




「一方、京本能寺では、大変な事が、起きようとしていた。明智光秀の、謀反である。」



「1582年6月21日未明の事である。織田信長の宿舎、本能寺が、明智光秀に襲撃されようとしていたのだ。」




「明智光秀の、謀反については、色々な設が、有った、影の陰謀設、織田信長殿から、受けた、屈辱設、天下捕り設等。様々である。」




「明智光秀は、用意周到だった。後々、明智越えと、称される、愛宕山へ行き、明智光秀は、何しろ、謀反の相手は、第六天の魔王である、故に、愛宕山で、勝利の神様の勝軍地蔵に、手を併せて。御神籤を、三度引いたらしい。吉が、出る迄の三度だった。」




「数日前の歌会では、決意表明とも言える、「ときは今 天(あめ)が下しる五月哉(かな)」。これは普通に解釈すると「季節は今、雨が降る5月であるよ」となりますが、実はこれには光秀の野望が隠されているといいます。実は「とき」とは自分の出身である「土岐」の事で(明智氏は美濃土岐氏の一族)、「今こそ土岐氏が天下を取る時だ」という意味だというのです。ところで明智光秀が、本能寺の変を起こす前に茶人と連歌を詠んだそうだった。」




「ときは今天が下しる五月かな光秀水上まさる庭の夏山西坊(西坊行祐)花落つる流れの末をせきとめて紹巴(里村紹巴)史料によっては後に続く歌が少しずつ違うようで、句目の「夏山」が「まつ山」だったり、三句目は「流れの末を」が「池の流れを」だったりしています。本能寺の変直後の里村紹巴の行動から、紹巴は事前に知っていたのではと言われてもいますが、当然ながら確たる証拠も見つかっておらず真相は闇の中です。」




「この様に、明智光秀は、用意周到だった。らしいです。」




「明智光秀は、兵を休めると、家臣達に。」



明智光秀………………「織田信長殿は、最近、帝を、脅かしたり、朝廷を、襲撃しようとしたり、織田信長殿を、このままに、しては、いけない。中国道には、向かわない。良いか、事は、慎重に、運ばねば成らぬ。」




「織田信長殿は、今日警護の者百人で、本能寺に、入るはずじゃあ。この機会を、逃せば、後はない。今が、絶好のチャンスなのだ。と家臣達に伝えた。」



「織田信長に、ほんの少し、隙が、出来たのである。」




「それは、21日の事だった。」




「エィ、エィ、オー。敵は本能寺にあり「実際には、言っていない。」。」




織田信長………………「秀吉が、来たのか。」




「織田信長殿は、「人間50年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなりひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか、滅せぬもののあるべきか」敦盛の舞を、舞っていた。」




森蘭丸…………………「あれは、桔梗の旗印に、有ります。」




織田信長………………「光秀ならば、秀吉の援軍に、行ったはずじゃあ。何故光秀が、来た。」




「明智光秀は、一万三千の兵で、本能寺を、襲撃したのだ。」




森蘭丸…………………「明智光秀、謀反に、ございます。」




織田信長………………「蘭丸、弓持てい。」



「織田信長殿は、弓で必死に、抵抗したが。光秀の兵の数の前ではどうにも成らず、「是非に及ばず」というと、本能寺に、火を放ち、自害した。」




「明智光秀が、恐れていたのは、織田信長の首を、曝す必要がある事だった。明智光秀は、謀反を、起こした以上、敵の織田信長の首を、曝す必要があるのだが、本能寺を、必死に探したが、首は、愚か、遺体すらなかった。この為、見方武将を、仲間に出来ず、山崎天王山の戦いで、負けてしまう。」




「ある一つの説だが、織田信長殿は、本能寺で、介錯されて、首は、駿河の本門寺の裏に埋めたという事を。聞いた事がある。」




「北へと、早馬が出た。柴田勝家に、知らせる為だった。」




「中国道へと早馬が出た。羽柴秀吉に、知らせる為だった。」




羽柴秀吉………………「なに、殿様が、討死じゃあとなぁ。違う、嘘じゃあ、あり得ない、殿様。」




「涙が、止まらない、秀吉じゃあった。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎様、大殿討死の敵討ち、誰に渡してもなりません。」




羽柴秀吉………………「中国の毛利は、どうする。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎様、和睦しかないのでは。」




羽柴秀吉………………「そうじゃあなぁ。」



「羽柴秀吉は、和睦を、成功させると。」




羽柴秀吉………………「人馬諸とも、かけてかけてかけ抜けい。」



「史上名高い、中国大返し。じゃあった。」



「明智光秀は、山崎天王山の戦いに備えていたのだが、秀吉の軍勢が、思わぬ早さで、姫路城入りしたものだから、焦っていた。」




明智光秀………………「なんだと、秀吉が、中国より、大返しをしたとの事だと。」




「明智光秀は、山崎天王山の戦いに備えた時、見方の兵に、次の様に言っている。」




明智光秀………………「わしは、このまま戦うが、お前達は、自由じゃあ、逃げるもよし。戦うもよしだ。」




「羽柴明智の両勇は、山崎天王山の戦いで、雌雄を決した。」




「圧倒的に、羽柴秀吉に、有意だった。明智光秀は、山中に、逃げるが、定説では、農民に、逃げる途中竹槍で、刺されたとの事である。」




「しかし、何故、本能寺の変で、一番得をした。人物が、徳川家康なのだ。色々なぁ。説がある。」




「黒幕説」




?徳川家康説
?足利義昭説
?羽柴秀吉説
?朝廷説




「いずれにしても、明智光秀は、生きていたのだ。」




「天海の甥っ子に、なって生き抜いた、という説がある。」




「辞世の句は本当に辞世か。それとも創作。辞世の句や最後の言葉は本当に最後の言葉だったんでしょうね。」



「例えば光秀の、「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」は、竹やぶで土民に刺されたときにそんなこといえるはずもないし、信長の、「是非もなし」なんて、あの戦乱の最中に誰が聞いていたのでしょう。」




「謙信の、「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」もトイレで意識を失ったのに言えたのか……。




「皆、言葉を考えて急死したとは考えられません。逆に、布団の中や徐々に死んでいった場合(家康・秀吉・信玄等)や、打ち首のため最後の言葉を言えたチャンスのあった人(三成・吉田松陰・江藤新平等)の言葉は信用できますが…………。」




「突然死んだ人の辞世の句は、後世、誰かが「そういえばあの人はこんなこと言っていたなあ………」と思い出して勝手に創作したと考えていいのでしょう」
























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2013.7.24 12:55 Wed 
短編歴史小説続太閤記中編 

「前回の、あらすじ。織田信長殿は、木下藤吉郎の、才能を見抜き、墨俣築上や、桶狭間の戦いの、スパイを、頼んだ。予想外に、木下藤吉郎は、織田信長殿に、尽くした。そして、真っ先に、動いたのが、徳川家康で有った、そして清洲で同盟を結んだ。」




織田信長………………「全ては、過ぎさりし悪夢じゃあ。竹千代期待しておる。よろしく頼む。」




織田信長………………「何、藤吉郎に、祝言じゃあと。」




濃姫……………………「木下藤吉郎には、寧々様という、それはそれは、美しい女性が、居ます、殿様の力で、祝言を、上げてやりましょうよ。」




織田信長………………「良し良し、サルには、もったいないが、寧々とやらと祝言を、上げてやろう。」




木下藤吉郎……………「織田の殿様、本日は、誠にありがとうございます。」




織田信長………………「誠に、めでたい、話じゃあ。藤吉郎、今後も、期待しておるぞ。」




木下藤吉郎……………「ありがたき、幸せに、ございます。殿様に、祝って頂き誠に、幸せ者です。」




織田信長………………「藤吉郎、寧々終生幸せになぁ。」




寧々……………………「誠に、幸せ者です、殿様に、祝って頂くなんて。」




織田信長………………「御市を、嫁に出す。」




濃姫……………………「相手は、誰にございます。」




織田信長………………「北近江の浅井長政じゃあ。」




濃姫……………………「成りません、浅井長政は、朝倉との繋がりが、ある為、織田家の立場を、考えると、先々、何か。起きます。」




織田信長………………「御市は、承知した。」




織田信長………………「近江は、京への、要じゃあ。」




「この時、岐阜に、一人の使者が、急いでいた。明智光秀であった。」




織田信長………………「足利義昭の遣いじゃあとなぁ。」




明智光秀………………「今は、朝倉家に、身を寄せておりますが、朝倉家に、天下に、昇る野心なしです。しかし、足利義昭は、野心溢れる方。織田信長殿に、是非とも。との事です。」




「足利義昭は、野心溢れる方で有った為、諸国大名にも、織田信長殿と、同じく書状を。送っていた」




織田信長………………「そろそろ来ると思っていたわい。」




濃姫……………………「光秀殿、元気でしたか。」




明智光秀………………「はい、元気でした。御濃様も、相変わらずですなぁ。」




明智光秀………………「兵と農を、分けるやり方が、私は、好きだなぁ。」




「明智光秀は、濃姫の従兄弟だった。」




「北近江国の浅井長政は、こう言った。」




浅井長政………………「実は、私は、桶狭間の戦い、の勝利に、痛く感じいって、織田信長殿を、武士の手本として、浅井長政の「長」の字は、頂きました。」




織田信長………………「嬉しい事を、言ってくれるのう。」




「こうして、御市は、浅井長政に、嫁に行った。」




木下藤吉郎……………「なんと、美しい女性だろうか。」




「輿入れ奉行は、木下藤吉郎じゃあった。」



木下藤吉郎……………「この木下藤吉郎は、幸せ者ですなぁ。」




「小谷城に、着いた、木下藤吉郎は、御市様を。よろしくお願いいたします。」




浅井長政………………「お疲れでしょう、嫌、実に美しい。菩薩じゃあ。菩薩様じゃあ。」




浅井長政………………「この長政、本当に幸せ者です。藤吉郎殿、御苦労で有った。」




「これで、浅井長政は、見方に、着く、琵琶湖の向こう側迄、わしのものじゃあ。」




「足利義昭の、話は、織田信長と争って京都を追放された後、各国を逍遥して妖術の体得に研鑽した末に大魔術師になり、ひよこ陛下の後盾を得てこの世界に新生室町幕府を作り上げた、足利王朝最後の将軍。」




「打倒信長に凄まじい執念を燃やし、その人生の9割は信長を殺すことに費やされた。あまりのしつこさにいつしか粘着将軍の名で呼ばれるようになった。」 




「喜怒哀楽豊かな道化師として足利将軍15代の内で最も知名度が高く、宿敵織田信長の生涯を鮮やかに彩った戦国のキーパーソンである。」




「要するに咬ませ犬ブッダやイエス・キリストですら及ばぬほどの高い徳とカリスマ性を備えており、国の垣根を越えて南蛮や唐土の人々からも畏敬された。」




「比叡山を焼き払い浅井朝倉武田を悉く滅ぼした信長でさえ、遂に義昭をその手にかけることはできなかった。」




朝倉義影………………「この辺で、織田信長殿とは、距離を、置いたら如何でしょうか。幕府管領職も、くれぬ、織田信長等。長政殿は、利用されているだけではないですか。」



浅井長政………………「其には、其の考えが、有ります。」




明智光秀………………「朝倉家を、攻めるべきです。将軍家名代の織田信長殿に、背いたら。どうなるか。」




「浅井長政は、足利義昭から、打倒織田信長の書状を、受けとっていた。」




「金ヶ崎の琵琶湖の畔では。織田信長殿は、焦っていた。」




徳川家康………………「某の、遣いの者が、この様なものを、御市様から、預かりました。」




「それは、小豆の入った、袋の両端が、紐で閉じてあるものじゃあった。」




「これは、浅井長政の、裏切りを、案じて。御市様が、教えてくれているのでは、ありませんですか。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎様、浅井長政から、攻撃を受けました。」




明智光秀………………「最早、浅井長政の、裏切りは、確実ですが織田信長殿は、どうします。」




織田信長………………「仕方ない。ここは、逃げる、逃げるのじゃあ。」




織田信長………………「殿は、明智光秀と、サルに、頼んだ。」




徳川家康………………「石川数正に後を、行かせる、木下殿、決して死んでは成らぬ、なにがなんでも。生きるのです。」




「織田軍への攻撃は信長との同盟に反対していた家臣達が提案したもので、重臣の海北清綱、磯野員昌、遠藤直経はこれに反対したと言われています。信長への進軍は反信長の家臣達の暴走という説もあります。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録もありません。織田軍が長政の裏切りを察知した理由については、近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいて通報したと『朝倉記』には記載があります。信憑性に疑問が持たれていますが、大々的な裏切りではなく浅井方の混乱のなか、暴走で裏切ったということなので「不審な動き」にすぎなかったのではないでしょうか。金ヶ崎の戦いは朝倉・浅井VS織田ではなく、実際は朝倉VS織田です。浅井による後ろ盾が無くなり、浅井への不信感を抱いた織田軍が早々に退却をしたにすぎません。実際、織田軍追撃部隊に浅井軍はなく、朝倉のみの追撃だったようです。」




1.織田軍は「怪情報」によって京に帰還したか
A.織田軍への報告無く浅井軍が軍備を整えていたのを織田軍諜報部隊が見て「不審な動き」として織田軍へ報告。一応浅井・織田の同盟の際「朝倉へ無断で攻撃をしない」という条件があります。条約を破ったのですから裏切りも考えられなくもないし、敵中ですから大事を取って織田軍が退却するのも理解できます。確信できる情報ではないにしろ、味方からの情報ですので虚報とは思えないでしょう。
2.浅井長政軍の一部は金ヶ崎城は向かっていたのかその場合4月26日ではどの辺に進軍していたのか
A.一部の家臣による暴走的な裏切りでした。追撃部隊に浅井軍がいないところみると軍備を整えているうちに織田軍が京へ撤退を開始したのだと思われます。大名・重臣が積極的に協力していた訳ではないので軍備が思うように整わないのも理解できます。結論としては浅井軍は進軍していませんでした。
3.浅井長政軍が動いたといする史料は無く、実際の戦闘は挟撃戦ではなく、朝倉軍の反撃に浅井長政の裏切りという脚色が付け加わったのか。
A.仮に浅井軍が朝倉についたということなら、信長にとっては敵中で孤立するということになります。浅井・朝倉の「軍による挟撃」とはいえませんが、近江・越前という「国規模での挟撃」となります。
織田包囲網をご存知ならば分かりやすいと思いますが、あの包囲網も本願寺・朝倉・浅井・武田・上杉が一堂に会し、軍を全て連合させて織田軍を攻撃したというわけではないです。国規模での包囲ということです。これと同じく、近江・越前二ヶ国で軍を挟撃したということでした。」




「織田信長殿は、逃げる途中、浅井長政軍と比叡山の、坊主どもに、鉄砲で打たれた。」



織田信長………………「憎きは、浅井長政、裏切りの罪深さを、浅井長政に、知らしめるのじゃあ。」




「織田信長vs浅井長政は、姉川の戦でけりを付けようとした。」




「しかし、浅井長政軍には、思わぬ、手こずり、が有った。浅井長政は、撤退した為、織田信長殿は、仕方ない撤退をした。しかし、四方八方敵だらけになってしまったのじゃあ。」




「天下制覇を、目前に、思わぬ、織田家の家臣達にも、不安を生じた。」




織田信長………………「比叡山延暦寺を焼き討ちにする。」




明智光秀………………「織田信長殿、比叡山焼き討ちは、某に、申し付けください。」




織田信長家臣…………「なんと、比叡山延暦寺を焼き討ちにするとなぁ。寺社に、手を出すのですか。」




「3千人という人々が、殺される、地獄絵図が、見られました。」



「そしてついに、戦国最強の騎馬軍団武田信玄は、立ち上がった。」




「三方ヶ原の戦で、徳川家康は、大敗した。」




柴田勝家………………「徳川家康が、援軍を、要請して来ました。」




「足利義昭は、この機会に、織田信長殿を攻めた。」




「愈々、浅井朝倉は、織田信長殿に、攻められた。」




「そして、北近江横山城を、拠点に、小谷城を攻めた。」




織田信長………………「浅井長政諸とも、城中。皆殺しじゃあ。」



木下藤吉郎……………「なんじゃあとなぁ、城中って、御市様は。」




木下藤吉郎……………「御市様、お迎えに、来ました。」




「燃え盛る、炎の中で、浅井長政は、自害した。」




「男は、殺して、女は、叩き返す。」




「そして、浅井長政、父久政のしゃれこうべを、金杯にして、家臣達と酌み交わした。」



「金杯のしゃれこうべは、浅井長政に、対する。敬意の現れで、あると言われる。」




「その後、安土城を、建築した。」




「安土城建築には、墓石や石仏が、使われた。といわれる。」




木下藤吉郎……………「織田信長殿、墓石や石仏を、使われるとは、少し無理が、有ります。????????。」




織田信長………………「何故じゃあ。無理を通しての織田信長じゃあ。なかったのか。」










中編










……………………続く











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2013.7.24 12:54 Wed 
短編歴史小説続太閤記前編 

木下藤吉郎……………「腹減ったなぁ。わしは、いつか侍大将になるって、決めて、中村を出て来たのは、良かったのかなぁ。あのまま、母上様の側に、居ると、迷惑かかるからなぁ。尾張を納める。織田信長殿は、どんな人なんだろうか。織田信長様に、御使いできたらなぁ。わしは、嬉しいのじゃあがなぁ。」




「待てっええ、お前等、民百姓相手の合戦を、考えたのは、織田信長殿じゃあ、待てっええ。侍達は、長槍で、ぼこぼこに、される侍達。」




侍達……………………「恐れながら、殿様、汚いは、百姓達の槍の長さ、こっちの槍の倍の長さですが。」




織田信長………………「同じ、槍じゃあ、油断した、お前等の負けじゃあ。これで、判った、得物次第で、民百姓でも、侍に、勝てる。」




百姓達…………………「殿様、わし等の勝ちですか。」




織田信長………………「そうじゃあ、お前達の勝ちじゃあ。豊肥を取らす。」




「金子に、お茶を、ご馳走になる、百姓達。涙を、流して。喜ぶ、百姓達。」




百姓……………………「殿様、戦に、なっても、おら達、百姓を、かり出さないから、わし等は、安心して、田植えが、出来る。織田信長殿は、日本一の殿様じゃあ。」




木下藤吉郎……………「あれが、大うつけ、と評判の織田信長様か。それにしても、服装は、なんじゃあ。殿様らしい、服装すれば、良いのだが。」




織田信長………………「そこに、隠れて、何をしておる。サル。」



木下藤吉郎……………「なんじゃあとなぁ、わしは、確かに、サルに似ている。しかし、人から、サルと、言われると、頭に来るんだ。」




木下藤吉郎……………「織田の殿様、わしを、使ってくだされ。わしは、必ず、殿様の約に立ちます、お願い申し上げます。」




織田信長………………「犬千代、どうじゃあ。」




前田犬千代……………「恐れながら。殿様の、草履取りに、一人欠員が有ります。」




木下藤吉郎……………「草履取り。」




前田犬千代……………「草履取りじゃあ。駄目か。」




木下藤吉郎……………「いいえ、恐れながら。ありがとうございます。」




「木下藤吉郎は、織田信長殿に、献身的に、遣えた。」




「ある日の事じゃあった。織田信長殿は、何時もの様に、草履を、履こうとした、そしたら、草履が、温かかった。」




織田信長………………「サル、わしの、草履を、尻に敷いて居たなぁ。」




木下藤吉郎……………「違います、この寒さで、殿様の足も、さぞや、冷たかろうと。懐中にて、温めて、おりました。」




織田信長………………「真か、犬千代。」




前田犬千代……………「殿様、恐れながら。真に、ございます。」



織田信長………………「やるのう、サル。お前の力、試してみたい。お前を、台所奉行に、任ぜよう、どこまで出来るか見たくなった。」




木下藤吉郎……………「ありがたき、幸せに、ございます。」




木下藤吉郎……………「御免、この度、台所奉行を、任ぜられた、木下藤吉郎に、ございます。なんと言うもったいない、事をしております、火鉢の炭は、殿様の持ち物。こうして、真ん中に、寄せるのです、炭は、倍持ち、これまでの三分の一ですみます。」




前田犬千代……………「木下藤吉郎は、倹約の才能が有ります、恐れながら、殿様、これまでの、三分の一程に、全て、減っております。」




織田信長………………「サル、お前、どうしても。侍に成りたいと、申したなぁ。今でも、その思い、変わらぬか。」




木下藤吉郎……………「はい、変わりません。」




織田信長………………「良し良し、明日から、足軽として、遣えるのじゃあ。良いなぁ。」




木下藤吉郎……………「なんと、嬉しい事じゃあ。」




織田信長………………「おい、勝家、その方。墨俣築上に、何年かける、気じゃあ、未だ土台も、出来ていないとは、どういう事じゃあ。」




「墨俣付近を、見に行く、織田信長殿。」




織田信長………………「サル、見よ。この辺り、近辺、みんな、敵地じゃあ。ここに、出城を、築いて。美濃攻め落とす。これが、わしの考えじゃあ。」




木下藤吉郎……………「織田の殿様、わしを、墨俣築上に、命じてくだされ。わしは、必ず、やり遂げて見せます。」




織田信長………………「ほざいたなぁ。サル、出来ぬ時は、その首ないと思え。良いなぁ。」




木下藤吉郎……………「その代わり。銭、千両を、ください。」




「墨俣は、入川、木曽川、長良川の、三つの川の、中洲で有り、そこに、出城を、築いて、美濃を攻める。これが、織田信長殿の、考えじゃあった。」




「木下藤吉郎は、近隣の、野武士の、蜂須賀小六に、墨俣築上の、話を、持ち出した。」



蜂須賀小六……………「織田信長目が、墨俣築上に、手を子招いて居る様じゃあのう。わし等に、墨俣築上の、手伝いを、という訳か。確かにわし等は、昔は、大工だった。ここは、仕方ない、昔を、思い出して、一丁やってみるか。」




木下藤吉郎……………「ありがたい。小六殿頼むぞ。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎、ところで、お前どうやったら、墨俣に、出城を、築ける。のじゃあ。」




木下藤吉郎……………「川の、上流で、木材を、切り、予め、土台となる、木材を、組み合わせておいて、川の流れに、沿って、組み合わせた、木材を、墨俣迄、運び、墨俣に、流れ付いた、木材を、組み立てるのじゃあ。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎、敵の矢玉は、どうする、気じゃあ。」




木下藤吉郎……………「織田信長殿の、鉄砲隊を配置して、敵の矢玉を防ぐのじゃあ。」



「こうして、墨俣築上は、民百姓達や、蜂須賀小六の力を、借りて始まった。」




木下藤吉郎……………「大きな石を、持ち上げると、大人は、このくらい。小さな石を、持ち上げると、子供は、このくらい。飯は、腹一杯食えるぞう。」



「木下藤吉郎は、色々なぁ、家を、転々としている時に、得た知恵で、有り、貧困生活の中で、得た知恵でも有った。ので、容易い事じゃあった。若き時の、福島正則、加藤清正も、この頃から、木下藤吉郎に、遣えて居た。」




「木下藤吉郎は、今で、言うプレハブ住宅を、造る様なものだった。」




「山の木を、切り崩しては、組み立てて。川の流れで、墨俣の中洲に、運び、組み立てる。木下藤吉郎は、たったの三日間で、墨俣築上を、して見せた。蜂須賀小六、民百姓のお陰だった。」




木下藤吉郎……………「小六殿、お主も、こんなところで、一生終わらせる気か、お主も、わしと、織田信長殿の、天下捕り、手伝ってみぬか。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎様、わし等でもちょっとは、訳に立ちますかのう。」




蜂須賀小六……………「藤吉郎様、織田信長殿の、天下制覇お供します。」




織田信長………………「人間、生まれや、育ちに、どれだけ。価値が、有ろうか、サル目が、わしに。良い事を、教えてくれた。」




「織田信長殿は、木下藤吉郎の、才能を、深く、かっていた。」




織田信長………………「美濃攻めの一番槍、サルお主が、やるのじゃあ。」




木下藤吉郎……………「はあはあ、ありがたき、幸せに、ございます。」




「美濃の国主は、斉藤龍興に、代わって居たが、墨俣の城を、藤吉郎殿が、築いた事で戦局は、一気に、織田信長に、傾いた。」




木下藤吉郎……………「なんじゃあ、味噌、醤油、米の仕入れ価格が、上がったとなぁ。」




寧々……………………「米でも、味噌でも、駿河に、持って行けば、高値で、買えるらしいです。」




木下藤吉郎……………「駿河になぁ。えぇっ。駿河になぁ。こりゃあ、大変だ。今川が、攻めて来るかもしれない。早く、織田の殿様に、知らせねばなるまい。」




織田信長………………「今川義元が、動いたとなぁ。サルお主は、今川勢に、紛れ込み。敵の様子を、知らせるのじゃあ。」




木下藤吉郎……………「はあはあ。」




「今川義元二万五千は、天下を、見据えて動き出した。その動きは、電光石火の如くの、動きだった。今川義元は、尾張良民達にとっても、はっきりと言って、厄介者が、動いたものじゃあ。だったのだ。」




「織田信長殿は、「人間50年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなりひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか、滅せぬもののあるべきか」敦盛の舞を、舞っていた。」




「すると、少数の人数で、熱田神宮に、向かった。」




「織田信長殿は、熱田神宮で、不思議なぁ、体験をする。家臣数人で、白鳥を、見たのだ。白鳥というと神様の御使いでも有った。」



「織田信長殿は、この戦勝てると確信した。」




織田信長………………「わしが、清洲を、出て、善照寺に、立て込もったと、見せかけるのじゃあ。」




織田信長………………「知恵と、力の限りを、尽くして戦うのじゃあ。」




「織田信長殿は、この段階では、鷲津、丸根砦は、捨てる覚悟じゃあった。」




織田信長………………「やはり、鷲津、丸根砦は、落ちたか。」




「苦肉にも、鷲津、丸根を、落としたのは、松平元康だった。」




今川義元………………「早くも、落としたか、岡崎の小倅め、やるのう。」




「木下藤吉郎は、今川勢に、紛れ込み。敵の様子を、織田信長様に、伝える、スパイの役目を、して居た。」




「この日は、とても、暑くて、一雨降るのを、織田信長殿は、待って居た。」




「タイミング良く、雨は、降り、はじめた。」




「木下藤吉郎は、敵の本陣が、止まるのを、待って居た。」




「尾張の農民に、扮した、木下藤吉郎は、桶狭間山で、今川義元を、足止めする作戦に、成功すると、」




「御神酒、や、粽を、今川勢に、差し出した。」




「織田信長殿は、こう言った。」




織田信長………………「雨の音が、我々の足音を、消してくれよう、死生天に、有り、狙うは、今川義元の首ただ一つ。続け〜い。」



「焦ったのは、今川義元本陣だった。」




「今川義元の本陣は、まさか、織田信長殿が、自分に、目掛けて。突っ込んで来るとは思わなかった。」




「しかし、織田信長殿は、違っていた。今川義元の本陣は、大混乱に、陥って居たのじゃあった。」




毛利新助………………「それなるは、今川義元と、お見受けしました、お命、頂戴つかまつります、御免。みしるし頂戴つかまつります。」




「この時代の合戦では、ない。新しい戦術、であった。織田信長殿は、そういう意味で、新しい時代の到来じゃあった。」




「桶狭間の戦い、で、今川義元に、勝利した、織田信長殿の、名前は、日ノ本一の戦国武将として、響き渡った。」




「一番最初に、動いたのは、松平元康じゃあった。」




織田信長………………「竹千代どうした。」



徳川家康………………「某の、不徳の致すところでした。誠に、申し訳御座いません。」



織田信長………………「全ては、過ぎさりし悪夢じゃあ。竹千代頼むぞ。お主が、どんな男かは、判っているつもりじゃあ。」




「今川義元が、忠告した様に、諸国の武将達は、織田信長潰しに、かかる様に、成って来た。」











前編










……………………続く











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