※34の続きです
先輩が「大丈夫」と言ったのを最後に通話が途切れてから、10分が経とうとしていた。何度電話を掛け直しても、機械の音声が流れるだけで先輩は出なかった。
「大丈夫」の後、すごい音が聞こえた。多分先輩は転んだりでもしたのだと思う。でもそれから連絡が来ないことを考えると、もしかしたら事故にでも遭ったのかもしれない。
大きなトラックと先輩の銀色の自転車が接触するところを想像してしまい、首をぶんぶんと振ってかき消した。
どうしよう。俺のせいだ。俺が風邪なんて引いて寝込むから、先輩が心配してこんなことになったんだ。
俺はパジャマの上からパーカーを羽織ってベッドから出た。足元が少しふらつくけど、そんなこと気にしてる場合じゃない。
玄関に出ていたあずさのサンダルを適当に足に引っ掛けて、ドアを開けた。心臓がどきどき言ってる。どこに行けば良いんだろう、先輩はどこにいるんだろう。
そんなことを考えていると、家の小さな門の前で先輩が自転車を止めているのが目に入った。
「…せん、ぱい」
俺の声に気付いた先輩は驚き駆け寄って来て、「何してんだ、寝てなきゃだめだろ!」と言った。
俺は思わず言葉を失う。けれど先輩の汚れた制服と、血の滲んでいる左腕を見た途端、涙が出てきた。
「何してんだは、こっちのせりふです!!」
先輩は面食らい、俺を見た。
「いきなり、電話してきて、来るって言って…それなのに急に電話切れて、つながらなくなるなんて、どれだけ心配したか…!」
先輩は顔を歪ませ、「ごめん」と一言呟いた。
「っ…、もし、事故に遭ってたりしたらどうしようって…思って、心配で…!」
「…ごめん、ごめんな…」
先輩が俺をぎゅっと抱き締める。顔を上げてみると、先輩はぼろぼろと涙を零していた。
「…先輩、」
「ごめん、俺、こんな…馬鹿なことして、いらねえ心配かけて…ハヤトはただでさえ辛い思いしてんのに…ほんとにごめん…!」
先輩は歯を食いしばって、必死に涙を止めようとしているのがわかった。そんな先輩を見ていたら俺までもっと泣けてきてしまって、ふたりでしばらく玄関で泣いた。
「なんか…ごめんな」
「良いですよ、そんなに謝らないでください」
やっと部屋に移動した俺達は、しばらく無言で先輩の怪我の手当てをしてから、お互いの泣き腫らした目を見て小さく笑い合った。
「腕、痛いですか」
「あー、もう平気。それよりお前は自分の心配しろよ」
「…俺だってもう平気です」
先輩は「嘘つけ」と笑うと、俺の額を指先で軽く弾いた。僅かな痛みになんだか安心してしまって、俺は先輩の服の袖を軽く引っ張った。
「どした」なんて言いながら、先輩は俺の顔を覗き込む。俺は先輩に強く抱き付いて、顔を埋めた。
「何何、甘えん坊?」
「…先輩、ここに来たからには風邪伝染ること覚悟してると見なしますからね」
「おう。むしろその方が早く治んじゃん?」
半分冗談で言った俺の言葉を聴き、先輩は俺の唇にキスをした。
「唇荒れてんじゃん、いつもと違って」
「そうですかね」
「ん、早く治せよ……あ、お粥良い頃かも。ハヤトはベッドに横になってろな」
キッチンに向かう先輩の背中を見送り、俺は再びベッドに乗り上がった。
先輩が電話を掛けてくれた時、来ないで欲しいと思ったのも事実だけど、本当は涙が出るくらい嬉しかった。心細くてしょうがなかった俺への先輩らしい心遣いが、すごく嬉しくて。堪え切れずに電話口で少し泣いてしまったのだけど、きっと先輩は気付いてないだろう。
「何笑ってんの」
キッチンから戻ってきた先輩が、楽しそうに言った。
「内緒です」と答えれば、「なんだよー」なんて笑って、ベッドの側のテーブルにお粥の入った小さなお鍋と、ウサギの形に剥いたリンゴを置いた。
先輩はまるで小さな子にするみたいに、スプーンで掬ったお粥をふうふうと冷まして、食べさせてくれた。
普段の俺なら先輩からスプーンを奪って自分で食べてるんだろうなぁと思いながら、今日は素直に甘えることに決めた。
俺の額を撫でながら、「早く良くなると良いな」と優しく笑う先輩。
俺はこの人が大好きだと、改めて強く思った。