真昼の片隅 side:Roy
執務室でなんとなしに胸ポケットから出した銀時計を見ると、ちょうど昼時の少し前だった。
今日が締め切りの書類はだいぶ片付いているから中尉に怒られる心配はないな。
ふうと息を吐いて、食堂へ向かうべく椅子から立ち上がった。
今日は中尉の出勤は午後から。
だが午前中に出勤して射撃訓練をするとかで、昼食は友人と取ると言っていた。こんな日は実に暇だ。
一人で食堂に行き、AランチにするかBランチにするか何の気なしに迷っていると、後ろから肩をたたかれた。
「よっ、ロイ!」
「ヒューズ!どうしてここに?」
振り向けば、東方司令部にいるはずのない友人が立っている。
「ニューオプティンで仕事があったんだが、予定より一日早く片付いてよ。ちょっと寄り道してここに来たんだ」
そういえば、ニューオプティン支部で軍則違反のゴタゴタがあったとグラマン中将が言っていたな。「あそこはハクロ少将の管轄だからどうでもいいんだけどね〜」と実に楽しそうな中将の笑顔を思い出す。酷いな中将。どうでもいいっていうのは私も同感だが。
「そうか。もう昼は食べたのか?」
「いやまだだ。お前もまだだろ?」
「ああ」
という事で、東方司令部内の食堂でヒューズとランチをとるという、とても珍しい展開になった。
空いている席の中で偶々目に入ったテーブルに、二人で向かい合うように就く。
長方形をした食堂の、四つある角のうちの一つに位置するテーブルだ。
どうせ向かい合うなら女性が、欲を言うなら中尉が良かった。
もちろんそんな事は口に出さないが。
「そういやエリシアがさ〜」
で、予想通り始まったヒューズの娘自慢。
グレイシアの口紅を勝手に持ち出して顔に塗りたくったとか、絵を描いてプレゼントしてくれたとか、「大きくなったらパパのお嫁さんになる」と言われたとか。
「エリシアが」から始まって「可愛い」に結ぶまでゆうに15分はかかった。
そして娘自慢が一段落ついた時に必ず奴が言うのは、
「だからな、お前も早く嫁さん貰えよ!」
これだ。
こう言われた時、無意識に中尉の顔を思い浮かべてしまう自分がいる事に最近気付いて、色んな意味でウンザリしてしまう。
「余計なお世話だ」
ぶっきらぼうな言動で、脳裏にちらつく彼女の姿をかき消そうとする。
「待っててくれる人がいるのはいいぞ〜」
「そうか」
「仕事を終えて家のドアを開けた時に愛しの妻と娘がとびきりの笑顔でおかえりって言ってくれてよー」
「そうか」
ヒューズの話は続く。
適当にあしらうつもりが、なかなか終わってくれない。
「俺、昨日ハクロ少将に会ったんだけど…」
家族自慢に満足したのか、何の前触れもなく話題がすり替わった。そこで飛び出した名前に思わず溜め息をつく。
「どうせ私の悪口だろう。だいたい予想はつく」
よほど面倒そうな表情をしていたのか、私の顔を見たヒューズも溜め息をついた。
「上にはお前の敵が多いって言いたいんだよ。ロイ」
ヒューズに指摘されるまでもなく、分かっていた。ほんの僅かでも味方がいた方がいい事ぐらい。
ただ私は苛ついていた。分かり切っている事を突かれた事よりも、長々と家族自慢を聞かされた事よりも、さっきから中尉の顔や声が頭から離れない事実に対して。
そのきっかけが「嫁」「家族」「待っていてくれる人」などの言葉に触発されたのだと理解しているから、どうにか頭から切り離そうとしているのに、上手くいかないのだ。
切り離し作業を脳内で進行しつつ、自分自身に問い掛ける。私は中尉に、「待っていてくれる人」になって欲しいのか?
仕事の面ではこの上ない理解者だ。だが、ヒューズが暗に示す「理解者」とは根本的な意味が違う。
つまり──
「ん?あれ、ホークアイ中尉か?」
内心で最後まで唱えてしまう寸前、ヒューズの声が、思考の沼に沈んで行きそうな私を現実に引き戻した。
助かったと思った。たとえ胸の内だとしても、言葉にしてしまったら、元には戻れなくなるだろう。今の関係に煩わしさすら感じるようになっていたかもしれない。いや、既にどこかで感じているはずだ。
沈みかけていた視線を、ヒューズの目線の先へと沿わす。
確かに中尉がいた。
傍らには彼女の友人だと言うカタリナ少尉がいる。
「あー、あっちに行っちまったか」
トレイを持った彼女たち二人は、ちょうど私たちの席の対角のテーブルに就いた。
今、私と中尉は食堂の対角線上にいる。
不思議な気分だった。
「例えば」
唐突なヒューズの言葉に、先程とは違う真剣さが滲み出ているのを感じた。
私と反対を向いて座っている金髪の女性から、目の前の友人へと顔を向ける。
いつの間にか体ごと彼女に向いて見つめていたらしい。
そんな私に、ヒューズはやれやれといった苦笑を見せた。
「お前をとくによく理解してるのは、ホークアイ中尉だよな?」
「……ああ。優秀な副官だ」
「違うだろ」
眼鏡越しの瞳に鋭さが宿る。
そうだった。ヒューズとはこういう男なのだ。
人の容れ物とも言える、建て前だとか外面だとかは、この男には無意味だ。ヒューズにはその容れ物の中身が見えてしまう。
最初から私の真意はお見通しだったのだ。私自身でも誤魔化しきれない気持ちを、ヒューズが見抜けないはずはない。
「無自覚な事が多いんじゃねーの?俺にぐらい白状しろよ。あの子に解って欲しいんだろ?理解者であって欲しいんだよな?」
「………はあ…。そうかもしれない」
「何だよ、歯切れの悪い」
素直に認めろよなー、と苦笑するヒューズに申し訳なく思った。
認めてしまったら、もう自分自身すら誤魔化しきれないところまで行ってしまうんだ。
でも結局、私と中尉の関係は上官と副官でしかない。それ以上に距離が近付くとなると、現在の関係は終わってしまう。壊れてしまう、 と言った方がいいのか。
ついさっきまで、心のどこかで「上官と副官」の関係を煩わしいとすら思っていたのに、いざ壊れる可能性に気が付くと怖くなる。
私はこんなにも、臆病者だったのか。
心を締め付けられる思いの私に、ヒューズが言う。
それは思わぬ打撃となった。
「お前が認めようと認めまいと、中尉は変わらないんだぜ」
含みのある言い方だ。
だが、今の私が真意を理解するには充分だった。
つまり中尉は、私をただの上司だとは思っていないという事だ。
驚いてヒューズを見ると、二人の視線が正面からぶつかった。
なぜ、お前が知っている?
瞬間に湧いた疑問だが、それを訊ねるのさえ愚問だ。奴は誰に聞いたでもなく、何らかの理由で中尉と接触した時にでも感づいた。きっとそうだ。
暫く目線を通わせ合っていたが、先に逸らしたのはヒューズだった。カップを手に取りコーヒーを飲み始める。
私は対角のテーブルに目をやった。
相変わらず向こうを向いて、中尉は食事をしている。向かい合った彼女の友人が私の視線に気付いた素振りを見せるも、私は構わずに中尉の後ろ姿を凝視していた。中尉はこちらを振り向いてはくれない。
昼時の食堂は、青い軍服を着た人々でごった返していた。私と中尉を結ぶ対角線上を何人もの人が通り過ぎる。
と、中尉が振り向いて……
その瞳が私をとらえる寸前、また人のかたまりが通って行った。
中尉はこちらを向いたのだろうか。その姿は全く見えない。
邪魔だ、どいてくれ。
青い一団が通り過ぎたが、彼女はさっきと全く変わりなく向こうを向いていた。その手にはカップがあり、カタリナ少尉と何やら話しているらしく、後ろ姿の頬が動いている。
前線経験のある軍人は、自分に視線が注がれているとすぐに気付くものだ。普段から勘のいい中尉はきっと気付いているだろう。視線の主が私である事も。
なぜ振り向いてくれないんだ。
でもいま中尉と視線がかち合ったところでどんな反応をすれば良いものか。
結局私は、何がしたいんだ。
また軍人の集団に阻害される。
青いかたまりが過ぎ去り、私たちの間には全く人がいなくなった。
そして彼女が、中尉が、立ち上がった。
その瞬間私は目をそらした。俯いたようにテーブルに向き、黙々と食事を再開する。何事もなかったかのように。
いま、中尉の目は私を映しているのだろうか。
「あー…ロイ、」
気まずそうに呟くヒューズの手元の皿は、いつの間にか空になっていた。
「お前を追い詰めるつもりで言ったんじゃないんだ。お前が少しでも素直になればと思ってだな…」
「ああ。分かっている」
全く味の分からない昼食は、胃に重たい疲れを残して漸く終わった。食べると言うより流し込むと言った方が適切なぐらいだ。
「気を遣わせて悪かったな、ヒューズ」
「いや、気にすんな」
本人よりも詳細に私の気持ちに気付いていた友人は、私が動き出すきっかけを作ろうとしてくれたのだろう。
これは絶っっ対に言わないが、私はいい友を持ったと思う。
「まあ、あとはどう伝えるかってのが問題だがな」
「…そう、だよな。でも…」
今、言う訳にはいかない。
思いを告げるのは一般には、互いの距離を縮めるための行為だ。だが私たちは「一般」の枠の中にはいない。思いを告げる事で、私たちの距離は開いてしまう。
「今すぐに、じゃないさ。いつかその時は来るよ」
その辺りはヒューズも解っているから、まさに救いの言葉をかけてくれた。
そうだ、その時のために。
私たちが今の関係でなくなっても側にいられる状況になるには、私たちが離れる訳にはいかない。
なぜなら、そういった状況は私たち自身が作らなければならないから。私が何かするには中尉が必要なのだ。
だから。
これ以上近付き過ぎる事も遠のく事もないように。
今は、言わないでおく。