こんばんは、彼方です( ´ ▽ ` )ノ

様々ありますが、生きています。

人って、違う事を一気に考えられないそうで、普段ネットでやってる作業をしている時、脳内で考え事をしていたら、ネットの作業はあっという間に終わっておりました(;・ω・)

妹に訊いた事がありますが、患者様を検査などに連れて行って、待っている間に「今日の晩ご飯、何にしよう」とか考えたりしているそうですよ〜〜

私は結構“手や足で何かやりながら考える”が多いですね(*´ー`*)

ご飯食べながら考える、歩きながら考える、そんな感じです。

そうしていると、一見して全然関係無い物事から、閃きが生まれる、それが私の思考法のようです。

今日はドール。

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うちのリカちゃん三姉妹の三女ちゃんに、キャミとタップパンツを着て貰いました。

キャミは後ろにスナップがついていて、これはチャコ落として、もう少し飾り付けたら完成品ですが、オビツボディでカスタムしたリカちゃんたちは下半身に重心があり、タップパンツは試作を続けています〜〜

このリカちゃんも、ちゃんと履いてはいますが、スナップはまだ付けていないです。

もう少しだけサイズを大きくして、1つ試作を作ってみるつもりでおります(ノ´∀`*)

最初の試作は太ももから上に上がらないくらい小さくて、でも近々うちの子になる予定の子が、恐らくは着られるのですよ(*≧ω≦)

自分用や家族用のアクセサリーなどは放置して、リカちゃんと遊んでいます。

リカちゃんに対して、お世話出来た事は意外と自分に対しても出来たりします(*゚Д゚*)

リカちゃんたちも、私の鏡なのだと思います。



人は使う言葉に支配されている面もあるのかも、しれません。

「ありがとう」を使うと、脳が辻褄を合わせるべく、いい事、有難い事にフォーカスし始めます。

私は「ごめんなさい」の時代が長かったので、脳が辻褄を合わせるべく、私が全部悪いんだ、と思える事にフォーカスし易かったです。

でも「ごめんなさい」で良かったと思っています。自分が責任を感じているから、出る言葉ですから。

私と争う人々は、何故か“誰かさんのせい”にしたがりました。

すると、傍にいる私のせいにするようになりました(^-^;)

仕舞いには“私がいるだけで駄目”みたいな、そんな、理不尽な事にもなりました。

私が初めて怒りが込み上げた時に、出てきた言葉というのがあり、

「この人は生きてるというだけで謝っている」
「だったら赦してあげるのが正しいのではないのか」
「何故なら、生まれ落ちて生きているというのは本人の責任とは呼べないからである」

みたいな言葉でした(ノ´∀`*)

人を愛する、という事は、

信じて、赦して、待つ事だと思います。

あやまちは人の常とも申します。

所詮は人、間違う生きものです。

時に人を激しく責め立てる事もあるだろうな、と。

いくら赦されても、それが間違いだった、と気付かないと、多分人は前へは進めない、と思います。


いつも来て下さる方々、拍手を下さる方々、新しく講読者様になって下さった方、ありがとうございます(*´∀人)

ではまた(≧▽≦)ノ

話題:ドール

赦せる事は強さの証だけれども、責め立てたり、暴力に訴えたり、怒鳴ったり、相手に何か無理強いするのは弱さの証、弱い人であればある程、他人の事を赦せないものです。

ガンジーの言葉にそうありますね(ノ´∀`*)

「赦す」という言葉は相手の存在を認める、という意味もあるそうです。

もしかしたら弱い人は間違いを認められないのかな、と、ここまで書いて思いました。

「ありがとう」と「ごめんなさい」だと、多分「ごめんなさい」の方が普通はハードルが高いのかも、しれません。

私は「ごめんなさい」の方が気楽です。
それが自分の責任ならば、自分でどうにかすれば良いので。