No. 4
 
 Date. 12.21(Tue)
 


 私にとっての幸せは何?
 





長いけど、
すごく感動した話なので
読んでください。




ザ・ベストハウス123




長男も!次男も!三男も!生まれてきたわが子は、みな障害児だった!

壮絶育児で、母が見つけた家族の絆。




広島県呉市。20年前、新婚の佐々木夫妻は、未来を夢見ていた。子供は3人。それが夫妻の夢だった。1989年12月。待望の長男が生まれた。海のように大きく育って欲しいと願い、洋平と名付けた。だが、その長男に異変が起きる。脳の発達不全。その影響で、長男洋平は目も見えず、耳も聞こえず、自分の意志でからだを動かすことも出来なかった。いつまで生きられるのかもわからない。この日から、志穂美さんの障害児の母としての人生が始まった。


育児は困難を極めた。そして、二度目の妊娠。長男の障害に、遺伝性はない。医師には、そう言われていた。そんな妻の苦悩を、夫は察していた。そして、驚くべき言葉を告げる。
「なぁ志穂美、生まれてくるのは次も障害児だといいな。だって洋平のお陰で俺達にはもう、障害児の育て方、わかっとるじゃないか。じゃけもし、その子が障害を抱えていても大丈夫じゃろ。」
そこには、博之さんの父としての思いが込められていた。この頃、長男に宛てて綴った手紙がある。

「見えてませんね」「聞こえてませんね」こうしておまえは、人間の機能を一つずつ打ち消されていった。歩く事さえ無理…ううん、洋平。おまえは走るんだ。何十年かかってもいい。世界中で一番ビリってことはけっしてない。父さんが必ずお前の後ろを走ってやる。父さんがビリになってやる。父親ってものは、子どものお手本として、前へ前へと進んで行くものだと聞いた事がある。だけど、一人くらいこんな父親がいたっていいだろう。疲れたら、よっかかっていい。ゆっくりゆっくり、進んで行こう。洋平。がんばろうな。


夫婦は第2子の出産を決めた。1991年4月。次男、大が誕生。しかし、次男は自閉症だった。そのため、他人とのコミュニケーションが困難に。この頃洋平は、頻繁に発熱、肺炎を繰り返していた。志穂美さんは、二人の障害児の母になった。夫は仕事で不在のことが多く、妻一人での子育てには限界が来ていた。夫婦は長男を施設に入れることを決断した。家族、みんなのために。


2年後の春、三男ワタルを出産。しかし、三男は次男より重度の自閉症だったのだ。自分が生んだ子は3人とも障害児。だが、母には悲しむ暇などなかった。待っていたのは、想像を絶する嵐の日々。志穂美さんは、心の奥にこんな思いがあることも、認めざるをえなかった。
「もし、わたしが子どもたちを障害なく産んであげていたら。あの子たちは仲良く学校に通うことができた。楽しい家庭が築けていたはずなのに、ごめんなさい。」


長男は、年ごとにからだが弱まり、いつ命が尽きるのかわからない。次男と三男は、人と交わることが出来ない、自閉症児。息子たちが仲良く遊ぶ姿も、喧嘩をする姿も、見ることの無い生活。志穂美さんは、誰もが手にする幸せを子どもたちに与えられない自分を責めていた。だが、そんな思いは間違いだと、息子たちが教えてくれた。


長男洋平が施設から戻ると、両親はかかりっきりになる。そんな様子を、普段は利かん坊の三男が、おとなしく見守っていた。そして夜になると、両親には何も言わず、次男と三男は兄の布団にもぐり込んでいた。川の字になって眠る3兄弟。その姿を初めて見た時、母・志穂美さんは、心が震え出すのを感じていた。普通の幸せ。いつしかそれを、他人のものさしで図っていた。だが、それは間違いなく、すぐそばに芽生えていた。


長男洋平の体調が急激に悪化した。残された時間はもう無いかもしれない。それでも20歳になるまで生きて欲しい。母はそう願っていた。そんな思いに答えるかのように、2009年12月、洋平は20歳の誕生日を迎えた。そして、家族5人で写真を撮影した。

それから一週間後。長男洋平の容態が急変。駆けつけた家族に見守られながら、静かに息を引き取った。亭年20。葬儀には多くの人が参列した。式と名の付くものは、10分と我慢できない三男ワタルは、この日は最後まで兄を見送り、普段感情を現さない次男、大は、泣き続け、誰よりも多く兄の棺に花を入れていた。3人の息子がくれた、かけがえのない幸せを胸に、佐々木家の歴史はこれからも続いていく。











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