植木が交通事故に遭った。
異世界への、記憶を取り戻す旅の後、100年の時を超えて人間界へ戻ってきた植木はやや迷って、再び高校に戻り、進学することを決めた。100年の歳月が色々と思わせるところもあったようだが、今植木は最終的に自分が下した決断に充分満足をしているようなので、恐らく、それで構わないのだろう。仲間達もしばし植木の決断を見守った後自分が信じる道へと歩み始めたようだった。世界中を旅すること、大学で沢山のことをまなぶこと、仕事を志すこと、人それぞれ、各々。タイムラグはあったが皆で温泉旅行にも行った。幸福が日常になりつつある。そんな矢先の事だった。
車に轢かれたのだと連絡を入れてくれたのは彼の姉の翔子だった。横断歩道を渡り切れなかったお婆さんを庇って大型トラックに撥ねられたのだと言う。丈夫さだけが取り柄なのだから大丈夫、いかにも私の弟らしいと言い張っていたのだけれど、電話越しに聞こえる翔子の声は酷く憔悴しきっていた。頻りに大丈夫だと繰り返していたのも森に対してではなく、自己暗示のようなものだったのかもしれない。無事だったとしも暫くの間は面会謝絶だろうとの趣旨を聞いて通話を終えた森は携帯を机の上へと投げた。ベッドに腰を落とし、自分の身体を抱くように膝を抱えてうつむく。眼鏡を掛けて読書をした後でもないのに、目の奥がちかちかと輝いて痛かった。深呼吸をすると背骨を何かぞわっとしたものが駆けのぼるのだ。大切な者を失う恐怖とは別の冷たい感情が森を支配していた。
たったの三日で植木との面会は許可された。相変わらずの尋常じゃない回復力で盛り返したそうだ。
植木が入院をすると家族よりも早く真っ先に飛んで行くのがいつもの森なのだが、何となく今回は自分からは植木に会いに行き難い気持ちであった。後ろめたい気持ちが森を取り巻いていた。結局森が行かなければ誰が行くのかと言う仲間の声に押されて、重い足取りで病院へ向かったのだけれども。
森の杞憂はどうやらやっぱり杞憂でしかなかったようだ。病室に入った途端に「おう森じゃねえか!久しぶり!肉まんうめぇ」と大量の肉まんを頬張る植木に出迎えられた。いくら個室とは言え病室で肉まんを食べるのは如何なものだろうか。いや、それより植木の容体は三日でここまでの食事を出来るものだったか。あんまりにも何時もと変わらない様子に、森は一気に肩から力が抜けるのが分かった。
話を聞くと、やはり事故に遭った時は生死を彷徨うような危険な状態だったらしい。植木が助けたお婆さんは、自分の所為で植木が事故に遭ったことにひどく罪悪感を感じていて、この三日の間に何度もこの病室に来てくれたそうだ。話をするうちに植木が何も気にしていない、責めるつもりはないと分かってもらえたようで、今植木が食べている肉まんも彼女から貰った友好の証だと言う。森はこの話をいかにも植木らしいと笑いながら聞いた。
森からも色々な話をした。学校の授業の進度から、バイト中の話まで。現在森のバイト先であるナガラクリーニング店では相変わらずプラスが客をドン引きさせまくっているだとか、ウールが看板犬ならぬ看板羊になりつつあるだとか。植木は課題の多さに顔色を青くしたり、変わらぬ仲間の様子に笑ったりと時々表情を変えながら話を聞いているようだった。
「退屈なんだよなー個室って」
「あーそりゃアンタからしたらそうでしょうね」
どうせ入院するなら大部屋でワイワイしてる方がよかったなあ。ぼやく植木に森は苦笑した。一体入院を何だと思っているのか。
「佐野とかヒデヨシ達からメールも来るんだけどさ。毎日会えるわけじゃないしな」
「早く退院しなさいよ。それで問題解決でしょ」
辛辣とした森の言葉に植木は、確かにそれはそうだけれどと肩を竦ませた。そりゃ、まあそうなんだけれどさあ。ふっと一呼吸置いて。キラキラしたものを見ているかのように目を細めて植木は笑った。
「お前が来てくれて嬉しいよ」
出会った頃に見せていた少年という言葉を有り体に表したような快活としたものとは違う、穏やかな笑顔だった。
面談の時間がそろそろ終わるということなので植木と挨拶を交わして病室を出た。
向かう先はこの病院の屋上。以前神を決める戦いで植木や仲間が入院したときから時々訪れていた、馴染み深い場所だ。軽い足取りで階段のステップを踏む。何か憑き物が落ちたような気分だった。
御守りを置いてきた。
まだ中学生だったあの頃、夏のあの夜に植木から貰った御守りだ。アノンに突き落とされたときも、繁華街へ向かったときも、100年の時を待とうと決めたときにも肌身離さず持っていた。それを置いてきた。植木の病室の窓際。日のよく当たる、綺麗に活けられた花の隣に。
開けた屋上へと抜け、歪んだフェンスの元までゆっくりと歩んでいく。波風なく、感情は驚くほど静かだった。
相容れなくなるのが怖かったのだと思う。
植木の持つ、正義と相容れなくなる事が。
頑なだったはずの友情が不安定な恋情へと変わることにより、植木自身の正義を行使することによって植木が傷つくことを今の森は昔以上に極端に恐れていた。植木の正義は時には自らの痛みを伴うのが当たり前で、今の自分の気持ちはあまりにもそれにそぐわないものになっていた。昔ならまだよかったのかもしれない。何とか見守ることは出来ていた。でも、今はもうダメだ。
植木のことが好きだった。今もたぶんこの先もずっと好きだ。努力家なところだとか、和食が好きなところだとか、目の色がビー玉みたいできれいだとか、好きになった理由には恐らく傍から見れば下らないと思うようなことまで様々なものがあるのだろう。そのたくさんの理由の中に彼の正義についてがあるのは多分、当たり前のことだ。正義を抱く植木が森は一番好きだ。だからこそ、例え自分の「好き」の性質が昔から変わっても、ずっと傍で見つめていた自分が彼が最もとして抱いているものを今更拒むことは出来ない。
植木がこの森の行動に、置いてきた御守りに気付くかどうかは大した問題ではなかった。これは森が自分の感情に決着を付ける、ただのエゴイステッィクなものでしかなかったからだ。植木が前に進んで行く限り、森は植木の横に並び、対等な立場でいたいと思っている。無理だと分かっていても、彼の信念に対して薄暗い感情など持ち合わせなくなかった。
いつの間にか黄昏が宵と柔らかく溶けあい始めていた。少しぼやけた視界の中で森は祈りを捧げるように目を閉じる。あかあかと輝く太陽の熱を受け止めてまぶたがじっと熱くなった。
アイツの今の怪我が早く治ると良い。これから先は大きな怪我はもうしないでほしい。進学、先生になるって夢を叶える為にするんだから、やっぱり元気でいなくちゃダメだ。あと翔子さんがまだ心配してるみたいだから、さっさと家に帰って病院食じゃなくてちゃんと美味しいご飯を食べれますように。そんな家族みたいに私の心が最後までアイツに寄り添っていますように。どうか、どうか、
「―――ごめん」
身を焦がすような衝動が森を貫いた。後ろから、背骨が軋むのではないかと思うほど強く抱き締められる。痛い。息が熱い。
「はなしをしよう。なあ、森」
懇願にも等しい声。声が、聞こえる。視界の端できらめく碧。誰でもない。他でもない。太陽によく似た熱い指先が目尻をなぞって、森はようやく自分が泣いている事に気が付いた。
〆12062