女性のまどろみのように陰鬱な空間を抜けると、そこは見慣れない家の中だった。
屋敷とでもいうべきか。中は相当広く、黒く輝く大理石が床をうめている。
「うわ、こんな時間なのに蝋燭ともしちゃって」
燎は一定間隔で壁に据えられた蝋燭を消した。指一つ鳴らしただけで。
「ここはどこなんだ?」
「いっただろ?僕等の家さ。ここは玄関。さ、どうぞこっち」
燎はゆったりとした歩調で、訝しがる東野を案内した。
だだっ広い廊下には所々に武器が掲げてあり、そのどれもが錆びついていた。
「あの武器…」
「ああ、高臣の趣味。敵の武器だよ。血を拭かないまま飾るからどんどん錆びちゃうんだ」
「それも趣味か?」
「そのようだね」
先に進むにつれて、武器の数も多くなってくる。その中に赤黒いひもが一本、壁に打ちかけられていた。
東野はそれに見覚えがあった。いや、以前の東野に。
「あの武器…か?以前の俺が記憶しているんだ」
「あのひもね。二ヶ月くらい前、僕が学校を襲撃したときに使ったひもだよ」
「『神殺し』」
燎はなかば驚いたような表情で東野を凝視した。
「以前の君の記憶力はすごいね。そうだよ。あれは弁財天という日本の神の持ち物だった」
「お前が奪ったのか」
「そうだよ。神殺しがボクの仕事だからね」
「なぜに神を?」
燎はためらう事無く即答した。
「ボクは神に触れられ、対峙できる存在だからだよ」
「そうか…。お前は自分の腕を試したいんだな」
「そのとおり。分かってくれるんだ」
「ああ。お前に封じ込められていた分、殺し足りなかったからな」
「ボクを恨んでる?」
「いや、むしろ感謝したいくらいだ。…ここは強いやつがたくさん居そうだ」
燎は天使的な笑みを浮かべて「よかった」と笑った。
「だって、ボクを殺したら誰が凍條に復讐するんだって話だよね」
話の後半は、殺気立つ東野の耳には聞こえて無かった。
だがそれでいい。
燎が本当に復讐を望む相手、それは翔ではなく凍條だった。
翔など眼中にも入っていない。
燎の手は今にも凍條を殺したくて震えていた。
「ここだよ。ただいまー」
廊下をぬけ、右に突き当たったところに巨大な扉があった。燎はそれを押し開け、東野を手招きした。
「おかえりなさい。…その子が新人?」
そこは30畳はあろうかというリビングだった。大きな窓際にはアールデコ調のソファが悠然と横たわっている。
その上にすわり、優雅に茶をすすっていたのは20代後半くらいの女性だった。長い髪を簡素にまとめ、薄化粧をしたその女性は東野に愛想良くほほえみかける。
「ああ、帰ってたんだね。東野くん、この人は関野理香さん。ここの魔術研究をしている人」
「東野だ。色々世話になる」
「よろしくね、東野君」
燎の予想とは違い、律儀な態度を示す東野に少し疑問を抱く。
「あれ?殺気だってたハズじゃなかったの?」
「俺だって力の差くらい分かっている。この女相手では到底勝てない」
「そっか。ちなみに理香さんがこの中じゃ一番弱い方だから」
「…本当か?」
「本当」
燎がほくそ笑んだときだった。今しがた燎が入ってきたドアが開き、誰かが入ってきたのだ。
「おかえりなさい。昼食の準備、できてるよ」
理香が東野の向こうに目をやった。つられて二人もその誰かをのぞく。
「…ただいま。ごめん、理香さん。なんか気分悪くて…」
「夕莉!」
「あ、燎。帰ってたのね」
金髪混じりの茶髪。口元にほくろのある女が、青ざめた顔に無理やり笑顔をつくる。
燎の表情が一変したのはそれよりも早かった。
普段の天使的なポーカーフェイスを崩し、心の底から心配しているかのような物腰になる。
「大丈夫?真っ青だよ。なんかあったの?」
「ううん。特に何もないんだけどね…ちょっと任務先で倒れちゃって。途中で帰ってきたの」
「そう。とりあえず着替えて、早く横にならないと。部屋まで送るよ」
夕莉は燎の差し出した手をやさしく掴んで拒んだ。
「大丈夫。あれ?新人さんかな?よろしく。私は夕莉…っと」
夕莉は新客に向かって手を差し出したが、大きくよろけ、転びそうになる。
「ごめんなさい。あれ?なんだか…気持ち悪くてっ」
床に膝をつく夕莉を燎は抱えあげた。
「燎、大丈夫だから。下ろして」
「どう見ても大丈夫じゃないよね。静かにして。上まで運ぶよ」
「…ごめん。ごめんね」
「謝んないでよ。このぐらいで」
燎は東野にばつの悪そうな顔をし、夕莉を運んでいった。
「…あの二人、何かあるのか?」
「やっぱりそう見える?」
残された二人はその様子を懸念しはじめた。
「でもね、それは燎の一方通行みたいなの」
「ふん…」
そんなこと、東野にとってはどうでも良かった。ただひとつ気がかりなことがある。
あの女は確か、夕莉といった。
「夕莉…もしかして凍條の…」
東野は記憶を手繰り寄せる。自分が覚醒する前、時の神クロノスによって見せられたあの白灰色の情景を。
「クロノス」
一瞬にして目の前の景色がセピア色に変わる。茶を片付けようとしている理香の動きが止まる。
「いるんだろ?」
「お前さんとは久しぶりじゃの。呼んだか」
東野の横で応答はあった。
「夕莉という女が気になる」
「わしが見せたからの」
「なぜ見せた?以前の俺は気にも止めなかったようだけど」
クロノスは目を伏せた。
「この物語の終焉を告げるのは、お前か凍條黎かはっきりさせておきたかったんじゃ」
「わからないな。終焉とはどういうことだ」
「原因を造ったのは誰か、という事じゃ。今、この世界の運命はお前と凍條黎にゆだねられている」
「どういう…?」
「この次に起こる災厄が、お前達の運命の別れ道なのじゃ。どちらかが生きるか死ぬか。どちらかが死んでも戦いは終わらぬ。だが、一方が命と引き換えに世界を護ることができる」
「それはどっちだ?クロノス、お前には見えるんだろう?教えろ」
「お前さんにも見えるじゃろう。すべてはお前とお前の中のぼうずが見定めればよい」
「俺の中…あいつまだ生きているのか!」
「当たり前じゃ。それに、お前達が運命を分かつとき、生み出された新しい命はもう、運命を背に歩き出している」
「クロノス・・・?」
クロノスは子供を慈しむ祖父のように目を細めた。
「新たな波乱の幕開けかもしれない。じゃが…命は一つではない。新たな命には新たな
仲間がおる。そう、ちょうどお前達子供のように」
「どういうことだ?新しい…命とは?」
「・・・あの少女。夕莉は…子を身篭っておる」