涼やかな夜の風が緩く髪を漉いていく。
一つ吐き出した息が白くなるにはまだ早いが、幾分空気に冷たさが混ざりはじめている。
あまり長時間外に居るべきではないな、とぼんやり考えながらカルセはバルコニーに佇んでいた。
カルセは元々此処の統率官であり、後輩指導や任務の支援などのためにしばしばこの城に立ち寄るため、草鹿の棟の一室を借りている。
それを申し訳なく思う一方で、とてもありがたいと感じていた。
殊更、今日のような日は。
と、軽いノック音が静かな部屋に響いた。
かつての教え子……ジェイドだろうか、と思いながら入室を促すが、入ってきたのは想定外の人物だった。
「よう、一杯どうだ?」
手土産であろうワインと食堂から拝借してきたと思しきグラスを持って笑っているのは、カルセにとってはかつての相棒であり旧友である男……スファルだった。
現在は王国警察に勤めている彼が城に来ること、況してや夜に居ることは珍しい。
カルセは幾度か藍色の瞳を瞬かせた後、ふっと笑った。
「おや、第一騎馬隊隊長ともあろう御人がこんな時間に酒の誘いとは、この国が平和なようで安心しました」
そんなカルセの言葉を聞いて、スファルは眉を寄せる。
そして溜息を吐き出しながら、少し強い口調で言った。
「八つ当たりか?らしくないぞカルセ」
それを聞いて、カルセは藍色の瞳を大きく見開く。
いつものような軽口……を装った中に微かに混ざった棘に彼はあっさりと気が付いたようだった。
一瞬戸惑うように視線を揺らした後、彼は両手を上げ、首を振った。
「……すみません、少し……色々、ありまして」
言葉を濁し、そういうカルセ。
スファルは部屋の戸を閉めて、彼の方へ歩み寄る。
「話は聞いたよ、ジェイドから。厄介な魔物に遭っちまったんだな」
苦笑混じりにスファルは言う。
彼は、どうやらカルセの今の様子の原因を聞いて、此処に来たらしかった。
それでは繕おうとするだけ無駄か、と思い溜息混じりにカルセはいう。
「……お喋りですね、あの子は」
「心配してんだよ、そんだけ酷い顔してたんだろ、城来た時のお前」
スファルにそう言われて、カルセは目を伏せる。
……確かに、教え子……ジェイドには酷く心配された。
白衣に血がついていたためかと思ったがどうやらそれだけではなかったらしく、"何があったのか教えてくださるまで離しませんよ"とまで言われ、結局事の顛末を語ることになったのは数時間前の話だ。
甘く、残酷な夢を見せる夢魔。
それに見せられた幻影を、愛しい人の形をとる魔物を殺した。
聞いても楽しくない話ですよと前置いた上で語ったそれを聞いた彼は酷く悲し気な顔をしていた。
「やはり多少は動揺していた、ようですね」
素直にそう認めれば、スファルは小さく笑う。
そして、室内のテーブルに酒瓶とグラスを置くと、自分よりほんの少し背の低いかつての相棒の頭を撫でながら、言った。
「大人しく認めるようになった辺り、やっぱりちょっと丸くなったな」
昔のカルセならばきっと、絶対にその表情の理由は話さなかっただろうし、下手をすれば部屋にも入れてくれなかっただろう。
スファルがそんなことを考えていれば、撫でられている当人は至極不満そうな顔をしつつ、口を開いた。
「……それは、褒めていると受け取っても?」
「勿論だ」
に、と笑ってカルセの頭から手を離す。
そして、テーブル脇の椅子の一つに腰かけながら、カルセを誘った。
「飲もうぜ、愚痴くらいは俺でも聞ける」
そんな彼の誘いに、カルセはくすりと笑った。
そして、冗談めかした口調で問いかける。
「私を慰めるという名目で飲みたいだけでは?」
「バレたか」
お道化たように肩を竦めるスファルを見て、カルセは微笑む。
そしてもう一つの椅子に腰かけ、ワインボトルを開けた。
***
淡い葡萄酒の香りが部屋に漂うその中で、カルセは先刻ジェイドに語ったのと同じ話を紡いだ。
酷く悪趣味で厄介な魔物。
事の顛末。
後悔は全くしていない、と前置いた上で、カルセは言葉を紡いだ。
「偽物であるとわかっていて、腹が立ったのは事実です。
あの子自身を穢されているようで、赦せなかった。倒す以外の選択肢はありませんでした。
でも、それと同時に……心の何処かで、偽物とはいえ、幻影とはいえ、愛しい存在を自分の手で害したのだと考えてしまっているのですよね」
人の心とは儘ならないものですね、とカルセは苦笑を浮かべる。
あの魔物の言っていた通りだ。
人間は、そうした幻影に弱い。
自分はあくまで平気なフリをして相手を斬ったに過ぎず、平然としていた訳ではない。
あれは魔物であった、偽物であったと納得した上で、それでも心の片隅の蟠りを消す術を持たず、こうして愚痴っている自分は弱いと彼は呟いた。
それを聞いたスファルは溜息を一つ吐くと、もう一度、今度は乱暴にカルセの頭を撫でた。
驚きの声を上げる彼の頭を一度小突いて、スファルは言う。
「いいんだよ、それで。
存分に悩んで、落ち込んで、飲みこみゃ良い。
一人でそれが出来ねぇってんなら俺やリスタに頼れば良い。
何でも一人で抱え込んで飲み込む癖は直らねぇのな、お前」
からからと笑ってそういう、かつての相棒。
弱くても良いじゃあないかと肯定するその言葉にカルセは瞬く。
それから、ふわりと表情を綻ばせた。
「……あぁ、そうでしたね」
いつも、彼は言ってくれた。
自分たちを、仲間を頼れ、と。
一人で抱え込むな、と。
クレースを喪った時もずっと、そう思ってくれていたのだと知ったのは随分後であったけれど……
「頼らせて、もらいますよ。ありがとうございます、スファル」
カルセはそう言って微笑む。
スファルも笑みを浮かべつつ、冗談めかした口調で言った。
「酔ってりゃあ少しは素直になるのかね、お前は」
「……そんなことはありませんよ」
ほんの少し拗ねたようにそっぽを向くカルセの耳は赤い。
図星じゃないか、と思いながらスファルは喉の奥でくつくつと笑ったのだった。
―― Always… ――
(離れていても、思っている)
(頼ってくれて良いんだと、思い続けているから)