必死に、必死に走る。
荒い呼吸の音だけが響く、真夜中の森の中。
短い黒髪の少年は必死に足を動かしていた。
いつもならばとっくに眠っている時間。
それなのに、今彼……ルカは一人、必死に走っている。
その理由……それはかけがえのない従妹を探しているからで。
―― 少し、時間をさかのぼって。
いつも通りに書類の仕事を終わらせたルカは休憩がてら、食堂に向かった。
その時点で既に日付は変わりかけていた。
いつもならば廊下ですれ違う騎士たちももう寝付いているのだろう、誰にすれ違うこともなかった。
そうして、食堂についた時。
誰もいないだろうと思っていたそこに一つの影を見つけて、ルカはあれ、と驚いた声をあげた。
しかも、だ。
そこにいたのはよく知った亜麻色の髪の従妹だったのである。
彼が一人でいるのは、珍しいことではない。
しかし、こんな時間に彼が一人でいるのは、珍しいことだった。
フィア、と声をかけようとして……ルカは思わず、口を噤んだ。
というのも、一人ぼんやりと座っているフィアのサファイアの瞳がぼんやりと、或いはどんよりと淀んでいるように見えたからで。
一瞬、声をかけるのを躊躇った。
しかしこれではいけないと、ルカは今度こそ、従妹に声をかけた。
「フィア」
「……ルカ?」
声をかけられて初めて気がついたというように、フィアは顔をあげた。
しかし大して驚いたような様子もなく、彼の声は静かで、無感情なものだった。
そんな彼の姿を見て、ルカは顔を歪め、訊ねた。
「どうした、フィア……そんな顔、お前らしくもない」
そう問うと、彼は少し目を伏せた。
相変わらずに淀んだ、サファイアの瞳。
それを見つめていれば、不意にフィアが口を開いた。
「……、つか」
「え?」
その声は小さすぎて、ルカには聞き取れなかった。
どうした、ともう一度聞き返すと、フィアはふっと笑みをこぼして……もう一度、呟いた。
「……いつか、皆、いなくなる、んだな……」
唐突過ぎる、そんな呟き。
ルカはそれに困惑して、瞬きを繰り返して、問いかける。
「いきなり、どうした?」
「……否、何でもない」
フィアはそういうと立ち上がった。
そして"部屋に戻るよ"といって、そのまま食堂を出ていってしまったのだ。
ルカは暫し茫然とその場に立ち尽くしていたが、すぐにこれでは良くないとおもった。
いつも冷静で、自分に対する対応がかなり雑なくらいのフィア。
それが、あんな様子を見せるのは珍しくて……
きっと、何かあったんだ。
そう思いながらルカはフィアの部屋に行った。
……しかし。
彼の姿が、なかったのだ。
居るはずの、彼の部屋に。
***
「くっそ……何処行ったんだよ……!」
ルカはそう毒づきながら、彼の姿を探した。
フィアの魔力は特殊だ。
もしルカがフィアの魔力を探ることが出来たならば、すぐにでも見つけられただろう。
しかし、ルカは魔力を有していない。
それ故に、フィアの魔力を探すことも出来ないのだ。
足で探すしかない。
何処にいったのか。
城の中か外か、それさえも検討がつかなかった。
とりあえず城中を探し回ったが、彼の姿は見当たらなくて……
直感で向かったのは、森の奥。
彼は一人になりたがる癖がある。
一人になれる場所……それは決して多くないはずだから。
そう思いながらたどり着いたのは、森の奥の、一本の木の上。
随分と高い枝の上に、亜麻色の髪が揺れるのが見えた。
声をかけようとしたが、すぐにやめる。
彼がもし驚いて足を滑らせたら……幾ら彼でも、危ない。
しかしどうする。
木をのぼることくらいは出来るが……魔力で衝撃を和らげる、といったことがルカには出来ない。
と、フィアがルカの気配に気がついたのか、視線を下に向けてきた。
「……来たのか」
「来たのか、ってお前な……こんな時間に何してんだよ!」
馬鹿!とルカは声を上げる。
いつもならばむっとするところなのだろうが、フィアは小さく笑っただけだった。
―― 一瞬、その背に黒い翼が見えた気がした。
「……なぁルカ、お前も俺を置いていくのだろう?」
フィアは、そんな問いかけをしてくる。
ルカはそれを聞いてルビーの瞳を大きく見開いた。
「……何を」
「お前も、俺を一人にするんだろう。
……いつも、そうだ。
父さんも、母さんも……大切な人たちは、皆」
俺を置いて、いなくなってしまった。
呟くようにそういうフィア。
ルカはそれを聞いて瞬きを繰り返した。
それから、やれやれというように、溜め息を吐き出す。
「……そんなの、わからないだろう。
俺の方が先に死ぬかもしれないし、お前が先かもしれない。
命をかけた仕事なのは、お前もよく知ってるだろう」
そう問いかけるルカ。
フィアはそれを聞いて、ふっと笑みをこぼす。
自嘲気味な、悲しい笑みだった。
「そう……そうだよな、知っている、覚悟もしていた、でも……だからこそ、不安になった」
そう言いながらフィアは月を見上げる。
蒼の瞳が、涙に揺れた。
「……知っている、だから……せめて、お前だけでも、永久に、生きてくれれば……」
―― 失う悲しみを、味わわずに済むのに。
フィアの声は、悲し気で。
あぁおそらく嫌な夢でも見たのだろう。
そう思いながらルカは小さく息を吐き出した。
こうなったら、放ってはおけない。
そう思いながらルカは木の枝に足をかけた。
思いの外、木が脆い。
身軽なフィアならば大丈夫だったのだろうが……
「っく……」
俺じゃきついか。
ルカはそう呟く。
しかし、あんな不安定な精神状態の従妹を放ってはおけない。
そう思いながら、ルカがフィアの居るすぐ近くの枝に腕を伸ばした、その時。
ばきっと音がして、彼の足元の枝が折れた。
はっとすると同時に、彼の体は重力にしたがって下におちていく。
―― まずいなこりゃ。
そう思いぎゅっと目を閉じると同時、空中でぐいっと誰かに腕を引っ張られた。
無論、それは……フィアで。
彼は蒼い顔をして、ルカの体を抱き寄せていた。
刹那、衝撃が体に走る。
しかしおそらくフィアが魔力で衝撃を和らげてくれたのだろう。
痛みは、少なかった。
「っ……この、馬鹿!」
すぐにフィアの叫び声が聞こえる。
ルカがそちらを見ると、フィアは蒼の瞳に涙を一杯に溜めて、彼を睨みつけていた。
「無茶を、するな……っ失うのが嫌だと、怖いといっている傍から……っ」
そう声を上げるのと同時に、ルカは彼の頭を強く小突いた。
その痛みに驚いたのだろう、フィアは口を噤んで、ルカを見つめる。
ルカは彼の様子を見て溜息を吐き出すと、呟くように言った。
「そう簡単に俺が死ぬかよ。
こんなに優秀な部下が居てさ」
そういって、ルカは笑う。
フィアは彼の言葉にゆっくりと、瞬きを繰り返した。
そんな彼のサファイアの瞳を見つめながら、ルカは言う。
「それに……俺に、永遠の命を、とか言ったな?
俺に、そんな責め苦を背負わせる気か?」
「責め苦……?」
子供のように茫然とするフィア。
ルカは彼に向かって頷いて見せながら、いった。
「永遠の命を持つということは、つまり死ねないってことだろう。
大事な人間全部が居なくなっても、俺は死ねない。
永遠に、大事な相手を見送り続けることになるんだ。
……そんなの、俺はごめんだぞ」
そういって苦笑するルカ。
フィアはそれを聞いて一瞬驚いたように大きく目を見開いたが、やがて表情を崩した。
そして呟くように、言う。
「……それも、そうだよな」
ごめん、馬鹿なことを言った。
そう言うと同時に、フィアの体がぐらり、と傾ぐ。
半分、寝ぼけたままだったのだろう。
そう思いながらルカはそんな彼を抱き留める。
「……安心しろ、お前のような従妹をおいて死ねるはずがないんだからさ」
そういって笑いながら、ルカは優しくフィアの頭をなでる。
彼の手に安堵したのか、フィアの表情が和らぐ。
従妹の表情の変化を見守ったルカは穏やかに表情を緩めて、そっとそんな彼の体を抱き上げてやったのだった。
―― 精神の均衡 ――
(お前が本当は脆いことはよく知っている。
大丈夫だ、俺はそんなお前を一人にしたりはしないから)
(いつでも、そうだ。
おまえは、いつでも、おれを…わたしを、すくってくれる)