静かな、月明かりの夜。
隻眼の少年は一人、白い月明かりのなか、中庭に佇んでいた。
冷たい風が吹き抜ける。
それが彼の短い黒髪を揺らしていった。
まだ少し火照った体に冬の風は心地よい。
何れにせよ此処くらいしかいる場所はないのだからちょうど良いと、
彼……シュタウフェンベルクは思っていた。
彼が先程までいたのは上官であるフロムの部屋。
……いつも通りの、"日課"だった。
フロムの部屋で彼に奉仕する。
彼の命令に従い、彼のされるがままになる。
どんなこともした。
無理矢理されても文句は言えなくて……
慣れたと、思っていた。
けれど……
実際は少しも慣れてなんていなかった。
精神的にも肉体的にもボロボロだった。
真夜中にフロムの部屋に呼び出され、好き勝手にされる屈辱。
疲れも、悲しみも、苦しみも、すべてがない交ぜになって、
もはや自分がどんな感情を抱いているのか、わからなくなった。
構わないと、思っていた。
自分が耐えれば誰にも危害は加えられない。
自分が耐えれば誰にも迷惑はかからない。
そう、思っていた。
けれど……
「私はなんの為に頑張っているんだろう……?」
不意に、口からこぼれた言葉。
吐息は白く凍って、真っ暗な空へ消える。
シュタウフェンベルクはそんな空を見上げた。
煌めく星。
それさえ、光を失って見えた。
「私は、なんのために此処にいるんだ……?」
なんのために騎士をしているのか。
なんのためにあの屈辱に耐えているのか。
……わからなく、なってきた。
積み重なった屈辱は、疲労は、悲しみは、苦痛は、感覚を麻痺させる。
一度迸った負の感情は、シュタウフェンベルクを侵食していった。
君ごときの力では、世界は救えない。
いざと言うときの覚悟が必要なのだ。
それがない君ではなんの力にもなれないと。
そういわれても、シュタウフェンベルクはがむしゃらになって頑張ってきた。
たくさんの任務に赴いた。
いつでも部下や仲間たちを支えてきた。
けれど……――
それさえも、無意味だと言うのなら。
何をどうあがいても、何も変わらないと言うのなら。
「こんな世界に救う価値なんてあるのか?」
なんのためにもならない、屈辱的な行為。
それを受けるばかりの自分。
それは……果てなく無意味な気がして。
「……どうせ、救う価値もない、救えない世界ならば……
祓魔師(わたし)に存在価値がないとしたら……」
シュタウフェンベルクを黒い魔力が取り巻く。
滲み出る悲痛が、彼を蝕む。
黒い感情を灯したまま、彼は口を開いた。
「こんな世界なんて……壊れてしまえばいい」
どうせ、壊れてしまう世界なら。
どうせ、自分に意味がないのなら
壊れてしまえばいい。
シュタウフェンベルクがそう呟くのと同時、ぐにゃりと世界が歪んだ。
視界の隅で、なにかが萌えるのがちらちらと見えた気がしたが……
―― もう、何でもいい。
シュタウフェンベルクはそう思いながら、静かに目を閉じた。
***
不意に、火の手が上がった。
それは真夜中のこと。
中庭の一角。
火などたつはずのないそこに燃え上がる炎に気がついたのは、
偶然食堂に向かった騎士の一人だった。
燃える炎に気づいて消火しようとしたが、どういう訳か炎は消えない。
そんな状況に焦った彼は急いで騎士の棟へかけ戻ったのだった。
その騒ぎに多くの騎士が目を覚ました。
そして慌てて消火しようとしたが……
どんなに水をかけても、魔術を使っても、炎は消えない。
襲撃か?
魔獣か人間か……
しかし……――
そのとき。
「あれ……」
騒ぎの中に来ていた一人の少年……ヘフテンが小さく声をあげた。
その、炎の中心。
そこに、人影を見た。
その影……そこにいる人物の気配は、魔力は、よく知ったもので。
「……シュタウフェンベルク」
ヘフテンのすぐ隣にいた長い黒髪の少年……ぺルが小さく呟いた。
その表情には驚愕の色が灯っている。
そう。
その魔力が消えない理由はただひとつ。
それを発生させている人間が、特殊な人間だから。
その魔力を暴走させている人間が、破魔の魔力を持つシュタウフェンベルクだからだ。
「……みんな、下がった方が、いい」
ぺルはそう呟いた。
そして逆に、一歩足を踏み出す。
それと同時、接近を拒むように炎が大きく燃え上がった。
少しずつ炎は燃え広がっている。
憎しみをともしたような、炎。
悲しみをともしたような、炎。
それは次第に、庭の木々を、花を、燃やしていく。
ともすれば、城に燃え移る。
それが、爆撃を受けた街の景色に重なって見えて、ヘフテンは顔を歪めた。
ぺルの足も、震えている。
恐らく、彼も同じ景色を思い浮かべているのだろう。
彼を、シュタウフェンベルクを止めなくては。
どうしてこんなことになっているのかは、よくわからないけれど。
きっと何かがあって、彼がこんな風になってしまっていることは想像できたから。
ぺルは一瞬ふらついたが、もう一歩足を踏み出す。
そんな彼を拒むように一度炎が大きくなり、ぺルを襲った。
ヘフテンがそれを慌てて引っ張って、躱させる。
「ぺルさん、危ないから……!」
近づいたら駄目だ、とヘフテンはぺルに言う。
しかしぺルはふるふると首を振って、彼に言う。
「シュタウフェンベルクは、大事な、人だから……」
放っておけない。
一緒にいたいから。
ぺルは、そういう。
「こんなになるまで、何もわからなかった……
ううん、知ってた、様子が変なのは……
でも、何もしてあげられなかった、から……」
今からでも遅くないなら。
ぺルはそういってシュタウフェンベルクに近づこうとする。
炎が大きくても、怯むことなく。
ヘフテンはそんな彼を見てまばたきをすると、
唇を噛み締め、そのあとを追うように歩きだした。
彼の様子に、周囲の騎士たちは驚きの声をあげる。
「ヘフテンっ!?」
やめとけ!
後ろから聞こえる声。
ヘフテンは振り向いて、いった。
「僕にとっても大佐は大事な人です、放っておけるはずがありません!」
そういうと、ヘフテンはぺルのそばにいく。
ぺルはヘフテンの方を見ると、いった。
「……ちょっとだけど、障壁、張れる……
僕の魔力、シュタウフェンベルクの魔力に反応する、から……
緩衝できる、はず……」
「そうですね……!」
危険な目に遭わせちゃうけど大丈夫ですか。
ヘフテンの問いかけにぺルは頷く。
そして、ヘフテンの周りに極力強い障壁を張った。
ヘフテンはそのまま、シュタウフェンベルクに近付く。
炎を潜り抜け、彼の姿が見えるところまで。
そして彼は、シュタウフェンベルクの腕をつかんだ。
「大佐っ!」
強く、彼を呼ぶ。
ヘフテンに気がついたシュタウフェンベルクは顔を歪めて、いった。
「離せ……っ」
もう、わたしにちかづくな。
わたしにかかわるな。
彼はヘフテンに言う。
ヘフテンはその言葉に首を振る。
そして、きっぱりといった。
「離しませんよ、だって、今離したら、大佐絶対……」
そんな彼の声を拒むようにシュタウフェンベルクの炎が強くなる。
ぺルの障壁が緩み、一瞬熱さを感じたが、ヘフテンは怯まなかった。
そして彼は、シュタウフェンベルクに言う。
「大佐、こんなことしたい何て思ってないでしょう……!
きっと、なにかあって、それだけ……
それなのに……こんなことをしてたら……!」
「絶対、後悔する、から……
後悔、してほしくない……」
ぺルもシュタウフェンベルクの傍に来た。
魔力を保ちつつの行動、シかも自分の魔力を拒絶する魔力を掻い潜っての行動は大変だったが、
大切なシュタウフェンベルクのために、と必死だ。
ぺルとヘフテンはシュタウフェンベルクにぎゅと抱きつく。
大きく震えるシュタウフェンベルクの体をしっかり抱き締めたまま、彼らはいった。
「だから、駄目……駄目ですよ、大佐」
「……僕たち、が……支える、から」
だから。
自分を見失わないで。
貴方が大切に思っているはずの景色を、空間を、壊さないで。
そうしてしまったらきっと、一番傷つくのは貴方だから……――
二人は必死にそう訴えた。
シュタウフェンベルクに届くように、と……――
***
それからどれ位した頃だろう。
火の勢いが、弱まった。
炎の中に飛び込んでいった二人を助けるべく作戦を練っていた騎士たちは、
炎が消えた痕をみて、大きく目を見開く。
そこには、三人が倒れていた。
この小火を起こしたであろうシュタウフェンベルクと、
それを助けにいった勇敢なる彼の副官と、幼い黒髪の少年。
彼らに火傷はないようだった。
それは、ぺルが張った障壁ゆえか。
はたまた暴走しつつも最後に残った理性でぺルやヘフテンを傷つけまいとしたシュタウフェンベルクの優しさか。
「早く、医療部隊を!」
「原因の調査は後だ!」
そんな、怒号が飛ぶ。
シュタウフェンベルクの頬には微かに涙の跡。
うすらに目を開けたヘフテンはそっと、そんな彼の頬をぬぐう。
「もう、だいじょうぶ……――」
何があったかは、わからない。
きっと聞いたところで彼は答えてくれないだろう。
けれど、それでも構わない。
何があっても。
貴方がどんな状況におかれようとも。
自分は必ず貴方を支えるから……――
そういいながら、ヘフテンは再び目を閉じた。
次に目を覚ました時、シュタウフェンベルクをもう一度しっかり抱き締めようと思いながら……――
―― 守るべきものは ――
(もういい、何も守れなくていい。
そんな意識が、自分の心を蝕み、壊していった)
(けれどそれは貴方の意思ではないでしょう?
それが僕には、僕たちにはわかっていますから…)