†EVIL CROSS†

Round 1.

「…で？何ていうんです、そいつ」
不機嫌、というよりはもう少し幼い響きで、佐伯が渋々口を開く。
「は？」
「名前ですよ。まさか『藤田の猫』とか『おい』とか呼ぶわけじゃないでしょう」
「あ、…ああ、名前か」
　話題がソフトな方向に行ってくれたことに安堵して、御堂は膝に転がる「そいつ」の喉元を撫でた。気持ちよさそうに小さく喉を鳴らす様子に、知らず笑みが零れる。
「たー、と呼ぶらしい」
「……はい？」
　今度は佐伯が訝しげに眉を寄せる番だった。
「それが名前ですか」
「そう呼べば来るから、と言っていたが」
『そう呼べば』ということは、正式な名は他にあるのではないか。愛称だけをわざわざ伝えたのには意味があるのか。
…それとも、御堂には言えない名前なのか。
　体制を変えた「たー」は、今は御堂の胸元に手をかけて、まるで子供が抱っこをねだるようにへばりついている。短時間で随分懐かれたものだ。今すぐ首根っこを捕まえて引っ剥がしてやりたい衝動に駆られてしまう。
「……孝典」
「っ、何…」
「にゃ」
――呼びかけに反射的に顔を上げたのは、一人ではなかった。
「………藤田……あいつ…」
　予感を確信に変えた佐伯が、ぎりりと歯軋りした。
「たー」はおそらく「孝典」の愛称なのだろう。つまり藤田は、自分の飼い猫に「孝典」と名付けて毎日文字通り猫可愛がりしていたのだ。面白いわけがない。いや不愉快極まりない。むしろ今すぐ殴り倒したい。
　そんな佐伯の様子に、漸く事態を察した御堂が慌てたように「たー」を胸元から引き剥がした。突然両脇から抱え上げられた彼は、きょとんとした顔で御堂を見上げている。
「い、いや、きっと今のは偶然だ。私が顔を上げたから、つられてこいつも反応しただけだ」
「そうは思えませんが」
　低く地を這うような声音に、自分が悪いわけでもないのに嫌な汗が流れてくる。
「随分人懐こい猫だからな、どんな名前で呼ばれても反応するのかもしれないぞ。なあ『克哉』？」
頼むから返事をしてくれ、と祈るような心持ちで呼びかける。こんなにも真剣に猫と向き合ったのは生まれて初めてではないだろうか。
　そんな御堂の思いをよそに、彼はじっと瞬きもせずに御堂を見上げたまま。
「ほら見ろ。返事がない」
「っ、名前に『た』がつかないからじゃないのか」
「じゃあ試してみましょうか。『太一』」
　反応がない。
「た、…『田中』」
「御堂さん、それ名前じゃないでしょう」
いい加減降ろして、と言うように彼が両手をばたつかせる。
膝の上に座らせて顔を覗き込みながら、御堂は必死に「た」のつく名前を思い巡らせた。
「た…た、『太郎』？」
「いつの時代ですか」
「うるさい黙れ」
　我関せずとばかりに毛繕いを始めた彼に、佐伯はまたひとつ溜息をついて。
「『孝典』」
「にゃー」
――空気の読めなさは飼い主譲りか。
「…藤田。今月から減給」
「っ、職権乱用だ」
「それが嫌なら改名を要求する」
「別にどうだっていいだろう、猫の名前くらい」
「あんたの名前を気安く呼ばせるほど心が広くないんだ俺は」
「だ、…だから、それは私自身じゃないだろう。私だって、君以外に名前を呼ばせる気はない」
　勢いで言い募って、御堂がふいに黙り込む。
「…御堂さん？」
「……大体、私だって面白くはなかった。あの男が、馴れ馴れしく君の名を呼ぶのを、何度聞こえないふりでやり過ごしたと思っているんだ…」
　最後は口の中で消えてしまうような独白。
思いもよらない言葉に、佐伯は軽く目を見開いて。
「……何だ、澤村に嫉妬していたんですか？御堂さん」
「そ、そういうわけじゃ…」
くすりと笑いを漏らすと、御堂は不愉快そうに眉を顰めた。
「だから、猫の名前くらいでいちいち嫉妬するな。見苦しい」
「…はいはい。わかりました」
　くすくす笑いながら、佐伯は俯いてしまった御堂の額に軽くキスを落とした。
「帰りましょう。そいつも腹、減ってるんじゃないんですか」
「あ。…そう、だな」
　返事をしながらも視線を彷徨わせる彼に、思わず苦笑する。
ひょい、と御堂の膝から猫を抱き上げると『孝典』はおとなしく腕の中に収まった。
「ほら。行きますよ」
「…佐伯、いいのか…？」
「あなたの頼みを、俺が断ったことがありますか？」
　猫越しに振り返って、佐伯がにやりと笑う。
「まあ、こいつの居候代は、あなたに身体で支払っていただきますけどね」
――やはりそうなるのか。
　軽く天を仰いで、御堂は観念したように息を吐いた。

Loser- Takanori.M ?