スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

太陽の背後


夕日の向こうに朝がある
夜明けの向こうに星たちは帰る
光の向こうに僕の影が生える
この地上で太陽を追い続ければ
永遠に年老いることはないのだろうか

わかったんだ
鳥たちの囀りも遂に咲かなかった花びらも一そよぎの風も
あらゆる口実も信仰も契約も記録も
全ては僕らの背後へと過ぎ去り一筋の光に還っていく

狂った男


狂った男が神になった。
狂っていない人達が神を信じ愛し敬い慈愛を請った。
神は太陽と雪をすり替えた。
地球の110倍の大きさの雪が馬鹿みたいに役にも立たずに。
そして小さな小さな太陽がこの星のてっぺんと底を燃やした。
きっと熱いだろう。


はっきり言って僕の家は比較的に金持ちだったと今では思う。
こんなことで無駄に具体例を挙げたくはないのでそこは省略するが、200坪くらいの日本庭園があった。
僕はその庭で小さな頃から遊んでいた。
庭師の爺は非常によくやっていたと思うのだが僕は庭を壊滅させることに関しては負けなかった。

まず池に棲息する水棲動物の環境と習性については熟知していた。
普段は金魚や鮒が長閑に憩っているのだけど、人間の足音ですぐに岩陰に隠れてしまう。
その岩陰に雪掻きなどで水流を流し込む。
岩の反対側に設置した籠に魚たちが入り込む。この籠を引き揚げるタイミングを見計らう瞬間が最も楽しい。
因みに猫の足音では魚達は逃げたりしない。


岩の配置は真ん中に岩盤の橋があって右に赤岩、左に青岩、橋の奥に紫っぽい岩、さらに奥に平たい岩の島がある。最も奥に島に隣接して滝があった。

滝の傍にポンプ装置がある。なぜか装置の場所にだけ水カマキリが住んでいる。

装置は僕が小学生のころには既に壊れていた。

庭の奥はあまり行く気がしなかった。
なぜかと言うとそういう行動範囲のなかには秘境めいた場所や意味を感じるものだ。

実際奥は高い木が並んでて鑑賞用には適さない空間だった。

夏は庭師が来てくれて、僕は彼の好物のコカコーラをよく買いに行った。
秋は毎年トンボがたくさん来てヤンマが他の小さなトンボを全て蹴散らす様が壮観だった。
冬は池が凍り付く。そこに寝転がって雪空を眺めると、空を舞うような不可思議な浮遊感に浸れた。
春は梅の木が咲くくらいか。そんなわけで僕の家は色々と面白い要素が備わっていたと今は理解している。
今は、というのは昔は理解してなかったということだ。
歩道沿いに申し訳なさそうに植樹された直角の土地スペースを「庭」と言い張るせせこましい家と俺の家とは全くの同格だと思っていた。実に長い間。
そこに関して俺は危ういくらい悪気のない善良な人間だと思う。


やはり比較的富裕な家で放任されて育つことは人として生きるに於いて真に有意義であると俺は思い知っている。
しかし俺は有意義であることと幸福であることは正比例しない、どころか全く関係しないと思っている。
それは誰もが知らず知らず認めていることであろう。
幸福であっても無為な時間はたくさんある。だから人と比較して自分は金持ちだとか貧しいとか、あまり一喜一憂するのは賢くない。

まず俺にはいつも大きな悩みがある。
俺は市井の人たちとあまりにも、興味や観察力・洞察力のベクトル・深さが掛け離れている。
同じような浪漫を持った人間と理解し合う機会が無い。

無理して周りの人間にフラットに溶け込もうと自分をごまかした時期や試みがかなりあったが、徒労だった。
実に無為な行為だった。
ヒッピーもどきや殆どのアウトドア好きはもちろん表面的に趣味人に見えるだけで、中身は変わらない。



俺は友が欲しい。孤独を分かち合えるということだ。

Japan


巨大な寒天を殴りたい

反省

反省しないことを反省したい。とにかく振りはしない。人の真似はしなくていい。
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2024年05月 >>
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリー