ハロー、ハロー、
元気ですか。
わたしは元気です。
話題:ひとりごと
たとえば、だいすきな音楽がとなりにある。
たとえば、お気に入りの本が手元にある。
たとえば、コーヒーをゆっくり飲む時間がある。
たとえば、少しおしゃれをして出かけるような予定がある。
たとえば、これからやってみたいことに思いを馳せることができる。
たとえば、たとえば。
たとえば、そんなささいなことで幸せが感じられる。
ああ、幸せだなあ、って今日も何度も思ったよ。どうしてか最近のわたしにはそんなふうなきらいがあります。ちいさなちいさなしあわせを集めては、閉じこめてしまいたくなるような、どこか繊細な何かがわたしの奥底でざわざわと、うごめいては素知らぬ顔をするような、何ともいえない感じがします。いやだわ、説明がつかないなんてね。
就活という人生のビッグイベントが近づいてまいりました。わたくしも来たる12月、そのイベントに参加するうちのひとりです。なにもそんなに必死にならなくたって、と嘲るように俯瞰してくるわたしと、できるだけの準備はして、あたらしい道を探しだすの、と溌剌と手を差し伸べてくるわたしと。このふたりが交互にわたしに話しかけてくるので、最近は話してることが支離滅裂になっていやしないかと心配になってきました。でもどちらかを黙らすような思い切りもないのでどちらも黙認しては容認しています。ああなんてどっちつかずなわたし!
そして今日ですね、レポートに行き詰ったのをきっかけに、1か月前に受けた各就活サイトの適職診断を、結果が変わっているのではないかと思い受診しなおしたらば、とんでもないわたしに出会うことになりました。予想だにしなかった結果、にはなりませんでしたが、何故、そこまで、言い当てられなきゃいけないのか、意味が分からない!と頭上に感嘆符と疑問符が交互に浮かぶような結果にはなりました。この結果による適職判断は12月以降、ということでしたがその前に分析されたわたしの性格・人間像に驚いたわ。だってもう、鼻で笑うしかなかったもの!
まとめるとこんな感じ。
美的なものに対する感受性が豊かで、その点においては他人と逸する何かが自身にはあると感じ、そういった感情を表に出したい欲求を抱きながらもそうすることを躊躇している。そして子どもの頃に満たされなかった思いや過去へのこだわりから、悲観的な気分に浸る傾向もあり、自身の描く空想の世界でドラマティックに生きようとするところがある。
何やらはずかしい表現が並んでいますね。まったく、わたしは夢見る少女か何かですか。馬鹿馬鹿しい、ピーターパンでもあるまいし、と一蹴できればよかったのですが。ねえ。わたしを古くから知る友人は言うはずです。あんた、これ、当たってるよ、と。ええそうよ、わたしだってそう思うもの!こんなこと、自ら言うなんてはずかしいけれど!
そして分析結果は無情にもまだまだ続きます。人間ってね、自分ではなんとなく理解しているけれど蓋をしたい部分ってあるものだと思うのです。何が言いたいって、この結果を読み終えるころにはかなりのダメージを受けたということですよ。
持ち味と強みについて。
直観的、独創的、創意に富んでいる。どうやらこれがキーワードらしいです。しかしこの結論に至るまでの前置きがわたしのライフゲージを減らしていきました。
「自分自身が悩みと付き合ってきた空想家の部分が、悩み悲しむ激しい感情と向き合う人間を助けるというずば抜けた感受性とスタミナを発揮して、友人が元気になるまで辛抱強く傍にいることができる」
すばらしいフォローとして、わたしを後押しするような、そんな意味でいっているのですか、これは。どんな診断を受けても、感性がどうだとか独創的だとかか、そんな単語ばかりが並ぶことには、うすうす、気づいていました。そして受け止めてもいましたが、この、書かれ方は、なんなの?なに、わたしってば、そんなに影のあるひとになりたいの?それとも影のあるひとなの?もう続きを読むのに疲れてしまったよ、なんて。
意識、そして興味の向かう先。
この題からして、これまでの書かれ方からして、読む前から眉間を押さえたのはもう仕方がないことでしょうか。でも目を背けても仕方がない、ので、受容の意味も込めて、書き出してみることにします。
「自分がそこそこに満たされているものを持った存在であることを信じられず、
意識を向けることは「手の届かないものの素晴らしさと、内なる欠陥」です。発達させた美意識は手の届いた時点でその感動は陳腐化してしまうのです。そして内なる未充足なものを手に入れようと、美的感覚を満足させてくれるものへと目を向けるのです。
対象となるものや人が、手に入るか入らないかで意識が変化します。既にあるものはつまらないもの、価値のないもので、持っていないものが良く見える選択的な見方をします。
そして
行動の方向は「情緒的衝撃(感動)を求め、ユニークな存在」であろうとします。他の人と違う存在であることを強調しようとします。そこで見られる
行動様式は「時に分かりにくく、内密的で、繊細で、シャイ。場合により感情の起伏の激しさに周囲を戸惑わせる」ことです。」
眉間を押さえるより早く眩暈が襲ったのは言うまでもなく。どうしよう。どうしようもない。どうして。当たっていると感じたわたしに気づいたからだよ!ああもう何、わたしは生まれる時代を間違えたの?あまりにセンシティブでロマンチストすぎやしませんか?だめだ、カタカナにするとひどい頭痛を生むわ。でもどう考えてもこんな人間、面倒すぎるでしょう。わかってる、わかってたから今までひた隠しにしてきた部分はあったんだけどもね、こんなところで蓋をあけられてしまうともう開き直るしかないのかなと。
あとはこんなことが述べられていました。
対人関係には恐れを抱いている節があり、それは完全に自身が理解されるなんて思ってはいないから。そして交錯するシャイと目立ちたがりな部分。相手の考えを上手に引き出すことができ、自身から発信する際も感情を武器に情感溢れるステージのようなプレゼンテーションを作ってしまう。
そして極めつけの一言がこれ。
「架空の時間を生きています」
え、と一瞬わが目を疑いました。なに、本気でピーターパンにでもなるつもりなの?え、わかんないけどでもいつの日か迎える死をいかに綺麗に飾るかについては常に夢見て生きているよ、と自問自答。あれ、そういう問題じゃないって?
そしてこの長いながいスピリチュアルメッセージはこのような一文でくくられておりました。「その独創的なアイデアが浮かんでくる機を伺い過ごし、深い感動を味わうこと、運命について検討すること、これらに割く時間に比べると、あなたにとっては現実の時間などたいした問題ではありません」
馬鹿言うなよ、なんて思うより先にああ、そうだ、そうかもしれないと納得してしまったのでもうそれでいいです。
まさかこんなにとんでもない結果がでるなんて思ってなかったよ、ほんとうに。
今日聴いていたお気に入りの音楽たちが、こうやって衝撃を受けた日を想起させる要素になっていくんだろうなと、ただ虚ろに思うだけのライフゲージしかわたしにはもう残っていないようです。今日はもう寝ます。おやすみなさい。