竹孫^^
無駄に長い。
「…しくじっ、た」
鬱蒼とした森のうちのひとつの木、ごく普通の大きさの木の根本に座り込む。左足首が尋常じゃない痛みに悲鳴をあげた。どうやら気持ち悪い方向に捻ったらしい。見上げると先ほどまで登っていたはずの太い幹。あの高さから落ちれば仕方あるまい。伊賀崎はため息を吐いた。
落ちた。木から。
じゅんこがいなくなったのに気付いたのは日も暮れかけてからで、それでもいてもたってもいられなかった。いつも一緒にいる最愛のペットがいなくなるなんて、身体が黙っていなかった。
じゅんこは裏裏山の木の高い位置にいた。こんな短時間にこんなところまできたのか。そう思いつつも、迷わずにその木の出っ張りへと手を掛ける。軽い身のこなしでひょいひょいと器用に登り、じゅんこに一番近い幹に腰掛ける。「じゅんこ、おいで」可能な限り腕を伸ばす。じゅんこのざらついた肌に指が触れ、もう一度促すように名前を呼びかけた瞬間、じゅんこが腕に絡みつく感触と身体が宙に投げ出される感覚両方に襲われた。あ、落ちる。じゅんこの方に意識を持ちすぎて、自分の身体が思ったよりも傾いている事に気付かなかった。身体を庇おうにも、じゅんこを傷つけるわけにはいかない。片手は塞がれ、空いた片手で身体を支えるには高さがありすぎる。受け身をとろうにも宙に浮いた状態では動くに動けない。そんなことを考えているうちに地面は目の前だった。
「…まずいな…日が暮れてきた…」
空は茜から藍に染まりはじめ、身を包む空気も時間を追う毎に冷えはじめていた。気温は下がる一方で、伊賀崎の体力を少しずつ蝕んでいく。膝を抱えてきゅう、と身をちぢこませる。口から漏れる吐息は白く、初秋にしてはやたら冷える。いつの間にか日はとっぷりと沈み、景色は闇に包まれていた。空は重い雲に覆われ、滅入る気持ちをさらに追い詰める。寂しさはない。ただ、漠然とした不安。
「仕方がない…迎えを待つか」
立って歩こうにも左足が呻く。赤く腫れはじめた左足は若干えぐい代物となっていた。夜が更ける。寒さもいよいよ厳しくなりはじめ、ふと世界が静寂に包まれた。瞬間に、孫兵に言いようのない恐怖が襲いかかった。寂しくはない。じゅんこがいる。寂しく、ない。じゃあ、なんだ?身体が震える。寒さからだけだろうか。瞳を閉じると、脳裏に暖かい声が谺する。自分を呼ぶ、暖かくて優しい声。これは、誰の声だ?
ふっ、と閉じた視界が陰る。しまった、油断した。突然の敵襲に身構えようと目を開くと、そこには見慣れた紺の装束がいた。
「孫兵!大丈夫か!」
脳裏に谺する声。違う、これは目の前で響く声。暖かくて優しい、
「た、け…」
傷んだ灰色の髪が降る。視線を上げると、肩を荒く上下させる竹谷の瞳にぶつかった。
竹谷は長くひとつ息を吐いて、まだ落ち着かない呼吸のままその場にしゃがみこむ。伊賀崎の頭に掌を置き、そのままわしゃわしゃと乱暴に撫でまわす。わあ、と伊賀崎は間抜けな声をあげた。
落ちたままの頭をぐっと伊賀崎に向け、竹谷は大きく息を吸い込んだ。
「…っ馬鹿野郎!!!んな季節に1人で学園抜ける馬鹿があるか!!心配させんな死ぬかと思った!俺が!!」
わあっと大声でまくし立てると、ぽかんとした伊賀崎の表情が映った。伊賀崎はぼんやりと、竹谷先輩がですか、なんて思ったりしたが口にしたらまた何か言われそうなので黙っておくことにした。
ただぽつりと、
「…すみ、ません」
それだけだった。
よし、呼吸もすっかり整った竹谷は呟き、そのままくるりと半回転して伊賀崎に背中を向けた。またも伊賀崎がぽかんとしていると、痺れを切らした竹谷が口を開いた。
「乗れって」
「………え、」
「左足。捻ったんだろ」
あ、と伊賀崎が漏らすのと、竹谷が半ば強引に伊賀崎を背中に乗せるのはほぼ同時で、伊賀崎は本日二回目の間抜けた声をあげた。
よし、これも本日二回目の竹谷の呟きで、そのまま学園の方へ足を動かしはじめた。一定の間隔で揺れる背中。伊賀崎は少しだけ体温が上がるのを感じた。
「じゅんこか」
「あ…はい」
「そっかそっか。委員会来ないから心配したんだぞ」
まあちゃんと見つかって良かった!
顔は見えないけれど、にっこりと笑う竹谷な笑顔が見えた。
乗せられた背中から竹谷の全身を見るといたるところが泥に汚れていて、こんなになるまで探し回ってくれたんだ、と頬が暖かくなる。そこで伊賀崎ははたと気付く。そういえば自分は聞いていない。
「今日…委員会でしたっけ?」
ぴたり、順調に歩を進めていた竹谷の足が止まる。暫く「えーと」だの「あの」だの「それは」などといった竹谷の呻きが続き、はあっと盛大なため息でそれは終了した。
伊賀崎が頭上に「?」と浮かべていそうな表情で首を傾けた。
「ああー…もうっ!」
その場に止まっていた竹谷が急に(しかも大股で)動き出したので、伊賀崎はバランスを崩しかけ竹谷の肩にしがみつく形になった。竹谷の顔が至近距離にきて何故か心臓が跳ね上がりそうになる。竹谷の横顔をちらりと見ると、耳まで真っ赤に染まり上がっていた。
「孫兵が帰ってこないって聞いて心配だったの!好きな子が危ない目にあったらって考えたら身体が勝手に動くもんだって!」
「……っ!?」
ああ、言っちゃったよ!竹谷は投げやりに呟いた。
おそらく竹谷本人は爆弾発言に気付いていない。伊賀崎は少しだけだった顔の熱が尋常じゃなくなるのをひしひしと感じていた。今この人はさらりと何を言った。
心臓がどくどくと早鐘を打つ。谺する声が暖かく心に染み渡る。ぶつぶつとなにかを呟く竹谷の声が柔らかく響いて、せわしない心臓の動きの理由がぼんやりと分かった。
ああ、僕は。
虫の声と森の色と恋におちる音。
(……………)
話せない。声が出ない。
気付いてしまった以上、下手に口を開いたらしょうもないヘマをしてしまいそうで。そうだ、さっきの竹谷みたいに。
『好きな子が危ない目にあったらって考えたら身体が勝手に動くもんだって!』
頭で反復させて、脳が沸騰しそうになる。熱く血が巡る顔を隠そうと竹谷の首もとに頭をうずめると、竹谷が息を呑んで笑う気配がした。