地の底から響くような低い声が、薄暗い室内に反響していた。
その声はステンレスの台に置かれた死体袋の中から聞こえており、中身が暴れているのかボコボコと変形を繰り返している。
それを見て心底うんざりしたような顔をすると、相棒が溜め息を吐きながらハンマーを振り上げた。
20XX年。
ある男が感染したのを切っ掛けに、未知のウイルスが瞬く間に世界中に拡がった。
それは感染した者を24時間以内に死に至らしめる、致死率100%の恐るべきウイルスだった。
だが、そのウイルスの恐ろしさはそれだけではなかった。
信じられない事に、そのウイルスに感染して死んだ者をゾンビにしてしまうのだ。
ゾンビになった者は生体活動が止まるために徐々に腐敗していき、映画やゲームに出てくるような醜悪な姿になる。そして、何故か新鮮な血肉を求めて人を襲うのだ。
その際の力はリミッターが外れているのか非常に強く、特に顎の力は人間の肉や骨を簡単に食いちぎり、噛み砕いてしまう。
もっとも、力は強いものの動きが鈍く、噛まれたり体液が傷口などから体内に入らない限りはウイルスに感染しないため、ゾンビを見掛けたらすぐに逃げれば何の問題もないし、また襲われてしまっても頭部を破壊すれば動きを止める事が出来るらしいが。
それと、人以外への感染が無いのが幸いだった。人間以上に機動力がある動物までゾンビ化したらと考えると恐ろしい。
だが、それでも感染者は日に日に増えるばかりで、俺が暮らしている街はいつの間にかゾンビだらけになっていた。
今や閑散とした外を出歩いているのは人間よりゾンビの方が多く、不潔になった街中に悪臭が漂っている。
俺が働いているモルグにはゾンビが時々運ばれてくる。
大抵はそこら辺に転がっていた身元不明の死体として扱われたもので、それはどれもゾンビ化する前に此処へ運ばれてくるため、仕方がないと言えば仕方がない事だ。
もしも、運ばれてきた死体がゾンビ化した時は、死体袋に入ったままだろうが解剖中だろうが関係無く、速やかに頭を叩き割る事で対応している。
国としても、これ以上のゾンビの増加を食い止めるために軍を派遣し、捕まえては焼却処分という事をしているらしいが、増え続ける感染者を前に最早いたちごっこになっているようだ。
どうやら、このバイオハザードが終息する目処はまだまだ立たないようである。
…おっと、ゾンビの頭を叩き潰していた相棒が苦虫を噛んだような顔でこっちを見ている事だし、そろそろ行ってやるか。
『モルグにて』
「たまにはドクターがゾンビを潰したらどうですか?」
「何を言ってるんだ。ゾンビを潰すのは助手であり相棒でもある君の仕事じゃないか。君はゾンビ潰し、俺は解剖…ちゃんと分担されているだろ」
「仕事という雑用でしょ」
ジト目でこちらを見ていた相棒が呆れたように溜め息を吐いた。
「で、これどうします?」
相棒が頭の部分が潰れている目の前の死体袋をハンマーでつつく。
さっきまで暴れていた中身はぴくりとも動かない。完全に死んだようだ。
「うーん…燃やすか」
モルグの裏手には焼却炉がある。
国が行っているゾンビの焼却が追い付かず、こちらは後回しになっているため、モルグ内でゾンビ化した死体を自分達で処理するのにわざわざ購入したのだ。放っておいても臭いしね。
ただ、この小型の焼却炉は一度に燃やせるゾンビは一体のみで、更に火力も弱いため燃やし尽くすのに時間が掛かるのが難点だった。それでも無いよりは遥かにマシなのだが。
「ところでさ、今まで死体がゾンビ化する度に死体袋越しに散々潰してきたけど、もし仮死状態になってただけの人間が混ざっていたらどう思う?」
「あなたって本当に嫌な性格ですね」
そう言う相棒は笑顔だったが、明らかに目は笑っていなかった。怖い。
「まぁ、仮死状態になっていた人なら意味のある言葉が出る筈ですから、それで見分けられますよ。それに、いちいち袋を開けてチェックしていたら命が幾つあっても足りません。前に犠牲になった彼の二の舞はごめんですよ」
「ああ…あれか。あの時は流石に可哀想だったな」
このバイオハザードが始まったばかりの頃だ。
収容した死体がゾンビ化し暴れていたのを、死者が蘇生したと勘違いした職員がろくにチェックもせず死体袋を開けてしまい、中から飛び出してきたゾンビに顔面を食い千切られる事故があった。
結局、この職員はその場でゾンビ化し、丁度その場に居合わせた相棒に潰される事となった。
今ほどゾンビの存在が浸透していなかったが故の不幸な事故だった。
「それにしても、いつになったらゾンビは居なくなるんでしょうか」
「さぁ。今、世界中でワクチンの開発を急いでいるみたいだけど。…それに春になれば腐敗が進んで数は減るんじゃないかね、取り敢えずは」
「全滅は難しそうな感じですか」
「ウイルスをどうにかしない限りはいたちごっこだろうな」
ダラダラと喋りつつ、焼却炉に放り込んだゾンビを時折引っくり返しながら相棒と一緒にコーヒーを飲む。
最近はこうやって過ごすのが当たり前になっていた。
解剖医としての仕事なんざ、今のこの状況ではやっていられない。
一体いつになればこの日々が終わるのか、近頃こればかり考えている。
相棒も冷静にこれを捉えているような素振りはしているが、たまにぼんやりと何かを考えている時がある。多分、俺と同じ事を考えているのだろう。
一日でも早く、元の生活に戻る事が俺達の願いだ。
季節は冬から春になった。
バイオハザードはまだ終わらない。
相変わらず街にはゾンビが溢れていて、モルグにも定期的に運ばれてくるが、暖かくなったからか心なしか数が減ったような気がする。あくまで気がするだけだが。
取り敢えず、特に何も変わらない日々を過ごしている。
いや、変わった事が一つだけあった。
相棒がゾンビになったんだ。
あの時は驚いた。
珍しく遅刻してきたと思ったら、ゾンビになっていたんだから。
ゾンビに襲われないよう、外を出歩く時は特に用心深く行動していた筈なのに。春になったから気が緩んでしまったんだろうか。
相棒の首は肉をゴッソリ持っていかれていて、傷口から肉片が絡み付いた首の骨と千切れた血管が覗いていた。この傷口を見る限り、まず間違いなく即死したはずだ。
ゾンビに襲われた時、きっと怖かっただろう。絶望しただろう。そして、首を食い千切られた瞬間は痛かっただろう。
それでも長く苦しまずに死ねた事が彼にとって、せめてもの救いなのかも知れない。
今でも彼はモルグに居る。
最初は何度も潰そうとしたが結局、潰す事が出来ないまま今に到っている。どうしても生前の彼の姿と被ってしまって覚悟が決まらなかった。
ゾンビと言えば人間を食べるものだが、彼は人に襲い掛かる事もなく、ただ呻いてモルグ内をフラフラと歩き回るか、大人しく部屋の隅に居るだけだったので放っておき、時々何と無くではあるが話しかけたりしていた。
けれども、別れは確実に近付いている。
モルグ内は可能な限り室温を下げているが、冷蔵庫に入れっぱなしにしていた肉が少しずつ腐っていくように、じわじわと彼も腐敗が進んでいる。
見慣れていた顔は皮膚の腐敗が進み所々剥がれ落ち始め、髪も半分近くが皮膚ごと抜け落ちてしまった。
そして、いつからか腐敗臭が漂うようになり、それは常に換気をしていても室内に充満するようになった。
そろそろ潮時なのかも知れない。
覚悟を決める事にした。
一度覚悟を決めたなら、その覚悟が揺らがない内にやらねばならない。
かつて相棒が使っていたハンマーを手にとると、腐敗が進み更に動作が緩慢になった彼の前に立った。
出来るだけ一発で仕留めたかった。
ゾンビになってしまったが、それでも今まで一緒に過ごしてきた相棒である事に変わりはない。
感覚は既に無いだろうが可能な限り、痛め付けるような事はしたくなかった。
ハンマーを持った手を振り上げ出来るだけ高く掲げると、渾身の力を込めてそれを相棒の脳天に叩き付ける。
鋼鉄の塊は腐敗した皮膚を引き裂き、頭蓋を呆気なく貫くと中身を潰しながらめり込んでいった。
その刹那、相棒の双眸から涙のようなものが流れているのが見えたが、恐らく腐敗汁が衝撃で目から流れ出てきたのだろう。
きっとそうだ。ゾンビに感情など無いはずだ。
だって死体なんだから。
なのに、どうしてだろう。
いつものゾンビ処理と変わらない筈なのに、相棒の潰れる感触が手にいつまでも残っていて、さっきから嗚咽が止まらない。
季節は夏になり、バイオハザードは唐突に終焉を迎えた。
なんでも、ゾンビ化ウイルスのワクチンを東にある島国の連中が完成させたらしく、しかもその研究の過程で感染前のウイルスを破壊する物質を発見したのだという。
その物質が発表されるやいなや、各国でヘリを使った空中散布が一斉に行われた。
今日もワクチンの接種待ちの人々で出来た長い行列の頭上で、ヘリが忙しなく何機も飛び交っている。
それに加え、タイミング良く夏になった事もあって、主な感染源であったゾンビ達も腐敗速度が速まり急激に数を減らしたようだ。
今では路上に転がるゾンビの成れの果てが片付けられ、清掃業者により徹底的に洗い流されて、街中に漂っていた悪臭は完全に無くなっている。
街には人々が戻り、少しずつではあるが活気を取り戻し、それぞれが元通りの日常をおくり始めていた。
とは言っても、未だにモルグに運ばれてくるゾンビもいるのだが…それでも全盛期に比べれば無いにも等しい数だ。
完全に元通りになるまで、あと僅かといったところだろう。
俺は相変わらずモルグで解剖医をやっている。
今では仕事もゾンビ焼きから遺体の解剖に戻っているし、新しい相棒も出来た。前の相棒と違って素直で可愛らしいお嬢さんだ。お陰で毎日楽しく過ごせている。
でも時々、前の相棒の最後をふと思い出す事がある。
あの時、流した涙が本物の涙だったとして、ゾンビ化し腐敗した彼に意思はあったのだろうか。
もし意思があったのだとしたら最後に何を思い、潰されていったのだろう。
一つ分かっているのは、それを知る日が永遠に来ない事だけだ。