話題:ショートショート



始まりは今にも雪の降りそうな寒い朝だった。通勤のホームで見覚えのある顔に出くわしたのだ。といっても同じホームではなく線路を隔てた隣のホームである。

はて、誰だったか……。

私と同年代に見える風体の男。その顔には確かに見覚えがあった。が、名前は勿論、何処で会ったのかすら思い出せない。ここは地元なので、小学校か中学校で一緒だった人間かも知れない……と言うよりその可能性は高いだろう。学年に五百人以上いた時代、顔は知っていても話した事のないヤツは幾らでもいた。きっと、その内の一人に違いない。線路越しに大声で呼び掛けるのは流石に恥ずかしいし、わざわざ連結通路の階段を登り降りして対面のホームに行くほどの話でもない。その時はそういう結論で落ち着いたのだった。

ところが、その朝を契機(きっかけ)にやけに見覚えのある顔にばったりと出会すようになった。例えば、車道を挟んだ反対側の歩道に、目の前をゆっくりと通り過ぎるタクシーの横窓に、何気なしに観ていたテレビドラマの雑踏の群集の中に、見覚えのある顔を見つけるようになったのだ。男もいれば女もいる。子供もいれば老人もいる。まさに老若男女まちまちであるが、明らかに彼らとは何処かで出会っている、そんな確信があった。しかし、名前など肝心な情報は何一つとして思い出す事は出来なかった。直接、本人に声をかけて確かめれば良いのだろうが、不思議な事にいずれの場合も、距離が遠かったり相手が乗り物に乗っていたりと物理的に声がかけられない状況での遭遇となっていた。

いや、中には、どうしてもと言うのであれば声をかけられるケースもあった。しかし、喫茶店の窓際の席、シリアスな表情の男と向かい合う格好で目から大粒の涙を流している女性に向かって、外から窓をコンコン叩き「すみません、何処かで会ってますよね、僕たち」とはデリカシー上、流石に訊けないだろう。

兎にも角にも、そんな事が少なくとも日に一度、多い時は日に三度も四度も起こるようになっていた。と言って解決する手立ても思い浮かばず、気持ちにモヤモヤを抱えたまま日々は過ぎ、そして、問題の夜が訪れる事となる……。

新年会を終えた帰り、金曜の夜という事もあってか車内はいつもより混みあっており、私が乗り込んだ時点で座席は既にふさがっていた。仕方なく乗降車口の扉にもたれ掛かって車窓を流れる都会の灯りを酔った頭で追っていると、三つめの駅と四つめの駅の中程辺りで不意に電車が速度を落とした。が、これはいつもの事である。この場所で反対方面へと向かう対向列車とすれ違うのだ。それも、手を伸ばせば握手出来そうなくらいの近距離で。恐らく減速は対向列車とすれ違う際に生じる風圧を抑える為のものだろう。すれ違う間、二本の列車は殆んど止まっているような速度でのろのろと進んでゆく。

減速後すぐに対向列車はやって来た。私は扉窓により掛かったまま、ぼんやりとすれ違う列車に目を向けた。夜の暗がりの中、すれ違う列車の明るい車内がスポットライトを浴びた舞台のように私の目に映し出された。そして私は、その舞台上に、ついぞ有り得ない光景を見たのであった。

そう、すれ違う列車の中に見覚えのある顔を見つけたのだ。それも一人ではない。一人、二人、三人、四人……いや、もはや数える必要はなかった。車両にいる人間全員の顔に見覚えがあったのだ。

いったい、このような事が現実に起こり得るのだろうか?顔、顔、顔、顔……その全てが間違いなく見覚えのある顔である。にも関わらず、何処の誰だかはやはり微塵も思い出せない。しかも恐るべき事に、それは最初の車両だけに留まらなかった。二番目の車両、三番目の車両、すれ違う全ての車両にいる全ての人間が見覚えのある顔を持っていた。その全員が、遠足旅行の小学生のようにベッタリと窓に張りつき、笑いながら私に向かって手を振っている……。

瞬間、体の中から急激に血液が失われてゆくのが判った。何なのだ。どういう事なのだ。いったい何が起こっているというのか。理解を超えた出来事に脳の神経が錯綜している。視界はぐにゃりと歪み、あらゆる音が遠ざかってゆく。やがて、光が飽和したかのように視界が真っ白となり、世界を拒絶するように私の意識はプツンと途絶えたのだった。

それからどれくらい経ったのだろう。意識を取り戻した時、私はベッドの上にいた。見慣れた自宅の寝室。目覚めてすぐは朦朧としていた頭も、ぼんやりと天井を眺めている内に少しずつはっきりとして来た。頭が少しクラクラする。軽い頭痛もある。そうだ、夕べは確か新年会で……。瞬間、頭に昨夜の映像が飛び込んで来た。スロー走行ですれ違う二本の列車。そして、すれ違いざまに見た無数の見覚えのある顔。それは正しく悪夢と言うべき空恐ろしい記憶であった。それでも、何とか気持ちをなだめて冷静に記憶を手繰る。確か私はあの時……電車の中で意識を失ったはず。どうやって家まで辿り着いたのかまるで覚えていないが、今はこうして自宅の寝室にいる。ちゃんとパジャマにも着替えている。あんな恐ろしい事があった割には至って平穏な朝の目覚めである。これは少し妙なのではないか。

ふと、ある考えが脳裏をよぎる。もしや、あれは全て夢ではなかったか。昨夜の新年会、体調がいまひとつだったのも手伝ってか、早々に酔いが回ってしまった。それで二次会のカラオケには付き合わず一人帰途に着いたのだった。確かその時、同僚で同期でもある袴田
が通りでタクシーを捕まえ、私を乗せてくれたのではなかったか。そうだ、何となくだが覚えている。新年会の後、私はタクシーで帰宅したのだ。という事はつまり……あの出来事はすべて夢だったというわけだ。最近は見覚えのある顔に出会す事が多く、それが気持ちの中で引っ掛かりとなり、このような奇怪な夢を見させたのだろう。

夢ならばどうという事もない。安堵に胸を撫で下ろす。枕元の置時計を見ると午前7時を少し回っていた。今日は土曜で会社は休みなのでもう少し寝ていても良いのだが、変な考え事をしたせいか頭が冴えてしまったので、このまま起きる事にした。幾らか二日酔いの気はあるものの、この程度であればむしろ軽く動いた方が良いような気もする。気分を変える為に久し振りに映画を観に行くのも悪くない。うん、それが良い、そうしよう。

私は軽快にベッドから起き上がり洗面所へと向かった。まずは顔を洗って、歯を磨いて……。蛇口をいっぱいに捻り、冷水で顔をじゃぶじゃぶ洗う。真冬の朝、この冷たさが逆に心地良い。気持ちがシャッキリする。横に掛けてあるハンドタオルを手探りで掴み、水滴のしたたる顔を素早く拭いてゆく。いつになく爽やかな休日の朝。顔を拭き終えた私は、曇っている洗面台の鏡を軽く手でぬぐい、顔を近づけて覗き込む。と……

そこには、まるで見覚えのない顔が映し出されていた。

それから数ヶ月、見覚えのない顔をくっつけたまま私は生きている。このまま暮らしていれば、何時かはこの顔にも慣れ、自分の顔だと思えるようになってくるだろうか。そして、街中で見覚えのある顔に出会す度、こんな事を思ったりする――その中のどれか一つこそ、もともとの私の顔ではないのか――と。


〜おしまひ〜。