話題:焦った話



誰もいないと思っているところに人がいるとギョッとしてしまう。以前、街灯もまばらな夜道の路傍の草むらに西洋人形風の少女のマネキンが置かれていた事があり、その時は流石にギョッ!では済まずにギョッ!ギョッ!ギョッ!っとしてしまった。それ以来、突然の出現に驚かないよう少し注意してはいるのですが、そんな私を嘲笑うかのように運命は私をギョッとさせようと其所かしこに罠を仕掛けてくるのです。

さて、今回舞台となるのは勝手知ったる某雑居ビル。玄関から入ってすぐのエレベーターホール。降りて来たエレベーターに誰も乗っていないの確認した私は、そそくさと乗り込み、六階のボタンを押した。乗り込んだのは私ひとり。六階までの気ままな、みちのく独り旅というわけ。ところが。扉が閉まる瞬間、妙な気配を横の壁に感じたのです。すっと視線をスライドさせると、そこには謎の黒い楕円形がありました。けっこう大きい。ベーター内を照らす蛍光灯の淋しい灯りに黒楕円は艶々しく光っています。いや、光るというよりはテカっている。蒸し暑い夏の日、築の古い雑居ビル、艶光りした黒い楕円、となれば正体はただ一つ。そう、黒い彗星ことゴキブリ以外の何者でもありません。

ゾゾゾっ。一瞬にして血の気がひいてくるのが判りました。こ、これはいけない!、と顔が青ざめた瞬間、上昇するべくエレベーターが動き出しました。すると、その動き出しのガクンという振動に反応したのか、はたまた、私が向けた恐怖の視線を感じたのか、情熱のスペイン舞踊家にてエレベーターボーイのホセ・カルロス・ゴキブリータ君は、私が最も恐れていた行動に出たのです。それ、すなわち飛翔乱舞。エレベーターの扉は固く閉まり既に動き出しています。逃げ場は何処にもありません。レ・ミゼラブル!!これを人は何と呼ぶか。“絶望”である。青ざめた顔、頭の中は真っ白、これで鼻血でも出して赤色が加われば、この先はもう、床屋のサインポールかフランス国旗として生きてゆくしかありません。…と、今なればこそ冷静に当時を振り返って書いていますが、実際はマトリックス・リローデッドで、正直、その後の数十秒間の記憶は定かではありません。気がつくと私は、特に用もない三階に降り立っていました。そうです。あの縦横無尽の飛翔乱舞を五階までかわし切るのは不可能と判断した私は、反射的に三階のボタンを押し、転がり出るように脱出したのでした。

帰りは念のため階段で降りたので、その後のゴキちゃんがどうなったのかは判りませんが、これからは人間だけではなく他の生物にも注意しなければならない、という思いを強くしました。今回は何とか助かりましたが、次もまた助かるとは限りません。

勝って兜の緒を締めよ、です。

全然違います。

それはそうと、以前このエレベーターに乗った時、先客として蝉が乗っていた事がありました。ちょうどこの時節、いつぞやの暑い夏の話です。更に、よくよく考えてみれば、蝉だけではなく蟷螂(カマキリ)やカミキリ虫が居た事もあったような……。いったい、どれだけの種の生物の御用達なのだろう。まるで、ノアの方舟のようなエレベーターだ、そんな事を思ったのでした。

〜おしまひ〜。