話題:妄想を語ろう

それは目覚めて僅か9分31秒後の事だった。

それ、とは何か?

酸味と甘味の良好なバランスが打ち破られたのが、である。

何の酸味と甘味なのか?

サンキストレモンのように爽やかな朝の甘酸っぱさ加減が、である。

トイレのドアを開けたら先客が居た。それが目覚めて9分31秒後の出来事。私は独り住まいであり、人を招いた覚えもない。よって、トイレに人がいる道理がない。奇妙だ。が、その奇妙さを瞬時に消し飛ばす更に一段上の奇妙さがそこにはあった。それはつまり、便座に腰かけていたのが誰あろう、この私自身に他ならないという事。

「あっ、すみません!」

「あっ、すみません!」

全く同じタイミングで全く同じ言葉が私とヤツの口から飛び出した。さすがはドッペルゲンガー。シンクロの日本代表にしたい息の合いようだ。それは兎も角、レモンだと思って食べた物がドリアンだった、そんな感じ。いやはや、トイレに神様がいるのは知っていたが、まさかドッペルゲンガーまでいるとは知らなんだ。さて、どうしよう、と考え始めるも、良いアイデアなど浮かぶべくもなく、代わりに浮かぶのは「トイレに入る時はちゃんと鍵をかけないと」そんなマナー上の苦言であった。

とは言え、相手は私自身なのだから、結局、自分で自分に文句をつけているだけになってしまう。それよりも今はドッペルゲンガーの対処法を考える必要がある。適切な行動と思える選択肢は三つ。

@自然に居なくなる事を願いながら待つ。

A自然に居なくなる事を祈りながら待つ。

B自然に居なくなる事を切望しながら待つ。

私はAを選択した。と同時にシャツと靴下も洗濯した。さて、ここで再び三つの選択肢の登場となる。待つ間どうするか、その選択だ。

@録画してある山村美紗サスペンスを3分ほど観ながら待つ。

A録画してある山村美紗サスペンスを5分ほど観ながら待つ。

B録画してある山村美紗サスペンスを10分ほど観ながら待つ。

ここでも私が選んだのはA。そして、5分後、まだ何も事件が起きていないのにも関わらず、私は犯人が誰なのかを完全に見破っていた。今日の私は冴えている。気を良くした勢いでトイレへ向かう。消えていてくれると有り難い。水を流した音が聴こえていないのが気になるが、何せ相手はドッペルゲンガー。異形の存在である。こちらの常識がそのまま当て嵌めるとは限らないだろう。電気のスイッチはオフになっている。つまり明かりは消えている。頼む、誰も居ないでくれ。スイッチを入れ、祈りと共にドアを開く。すると……

ホッ。祈りが通じたのかヤツの姿は何処にも見当たらなかった。これでようやく落ち着いて入れる。と、その安堵も束の間、私はまたしてもドッペルゲンガーに対し、マナー上の苦言を呈せざるを得なかった。「用を足したらちゃんと流さないと」。更にもう一つ。トイレットペーパーの切れ目が妙ちくりんな感じになっている。二枚重ねの下の紙の端っこがくっついたまま上の紙だけ引っ張ったに違いない。しかも何周も。これはいったい何処で切ればちゃんと元の状態に戻るのだろう。

全くもう……と、途方に暮れかけたその時。ガチャッ!、音がして私の入っているトイレのドアが勢いよく外から開かれた。固まる空気の中、二つの視線が正面から衝突する。うげっ。果たして其処に居たのは案の定私自身だった。

「あっ、すみません!」

「あっ、すみません!」

ドアが慌てて閉められる。いつか何処かで見たような光景、と言うか、つい数分前にもあった場面。ただし今回は立場が逆。今度は私が鍵をかけ忘れていた。しまった。騒動に気を取られていたせいだ。いや、それは言い訳だろう。それにしても事態は思ったより厄介なようだ。ドッペルゲンガーは消えていなかった。さあ、困った。どうするべきか。こういう時は選択肢の登場となる。そしてその数は当然のように三つだ。

@ドッペルゲンガーなど気にせず軽やかにトイレを出て普段通りに行動する。

Aドッペルゲンガーを気にしつつも軽やかにトイレを出て普段通りに行動する。

Bトイレから出ず一生このまま暮らす。

お約束通りにAを選ぼうとした時、ふと、ある考えが私に浮かんだ。

先ほど私がトイレのドアを開けた時、私は中に居た“もう一人の私”の事を当然のようにドッペルゲンガーだと思った。そして今、トイレの中に居る私は、外からドアを開けた“もう一人の私”をドッペルゲンガーだと思っている。が、これは逆の考え方も成立するのではなかろうか。主客を転倒する。つまり、解りやすく言うと、「実は私の方こそドッペルゲンガーであった」そんな見方も成り立つのではないか、という事である。

いや、待て……。トイレでの思考は思いのほか深まる。ヤツの正体。ドッペルゲンガーとは限らないのではないか。別の可能性だってある。タイムリープ。そう、時間跳躍だ。経緯はこう。目覚めた私は何らかのタイミングで、例えば、二分後の世界へジャンプしてしまったとしよう。二分後の私は当然、ジャンプして来た私の二分先の行動を取っている事になる。つまり、先ほど私がトイレのドアを開けた時、中に居たのはドッペルゲンガーではなく、二分後の世界の私自身。同様に、私がトイレの中に居た時に外からドアを開けたのも、これまたドッペルゲンガーではなく、二分前の世界から新たにジャンプして来た別の時間軸の私であった。そんな可能性も十分ある。

ドッペルゲンガーなのか?
タイムトラベラーなのか?

いや……そもそもドッペルゲンガーと思われていたものの一部がタイムトラベラーだったり、その逆だったり……そういうケースも過去にはあったかも知れない。その場合、どう呼べば良いのだろう。タッペルゲンベラー?ドイムペトラガー?

呼び方はどうでも良いとして、今回の場合、もう一人の私の正体はいったいどちらなのだろう。私は完全に途方に暮れていた。もう、訳がわからない。残念ながら、こればかりは幾ら考えても答えは出そうになかった。自分のドッペルゲンガーに遭遇すると天に召されてしまうという話もあるが、これも通説や俗説に過ぎない。

ただ、ヤツの正体が何であるにせよ、はっきりと自信を持って言える事が私には一つある。それは……

『いい大人なのだから、もう少しちゃんとしなければいけない』

……という事だ。トイレに入ったらちゃんと鍵をかけよう。用を足したらちゃんと流そう。トイレットペーパーは三角折りまでいかなくとも、ちゃんとミシン目のところで切ろう。大切なのは(いつの時もそうであるように)この先どうするか、である。トイレにおける三つの“ちゃんと”。もう一人の私は、それを語らずとも教えてくれた。

私は改めて施錠し、ミシン目で切り、ちゃんと流した。これで良し。

トイレから出ると、もう一人の私の姿は完全に消え失せていた。私が立派にトイレで用を足せる大人になったからヤツは消えたのだ。何となくそんな気がした。大人か。私は一抹の寂しさを感じながら、そそくさと身支度を整え、仕事に向かうべく家を出た。

帰宅は深夜。家に入るなり、ブゥゥンという重低音が耳に届いた。どうやらトイレの換気扇が回っているようだ。うちのトイレは電気をつけると換気扇も同時に回る一体型となっている。という事は……トイレに誰か入っている?……冷や汗が背筋をつたう。もやし…違った…もしや…再びヤツが!?

が、そうではなかった。

単に私が電気をつけっ放しにしたまま出掛けてしまっただけのようだ。

『自分はもう少しちゃんとしなければいけない』

セーターとカッターシャツとTシャツをまとめて同時に、脱皮するように“子ども脱ぎ”しながら改めてそんな事を思っていた。


〜〜おわり〜〜。