話題:なるほど納得な話し



「2月3日は節分だ」と世間は言う、当たり前のように。

敢えて私は、その“当たり前”に、こう返したい。

「節分は2月4日では無かったですかね?」と。

子供の頃、節分は間違いなく2月4日だったような気がしてならない。「間違いなく…」と始めながら「…気がしてならない」と終わるところに竜頭蛇尾的な頼りなさを感じなくもないが、兎にも角にもそうなんである。

思い込みによる勘違い。

ごもっとも。確かに、記憶の誤謬を長年引き摺る事は往々にしてある。しかし、それを踏まえてなお、『節分が2月3日』なのはどうにも釈然としないのだ。

その釈然としなさ、感覚の違和は、恐らくイメージの違いに素因する。【節分】という熟語は【節】と【分】の2文字で成立している。【節】と【分】、共に“すっきりと割り切れる雰囲気”を持った文字だ。同様に【2月4日】も、2と4が共に偶数であるせいで、やはり“割り切れる雰囲気”を持っている。

つまり、イメージの重なりという点からも節分は2月4日が相応しいのである。事実、子供の頃の私は、豆まきで豆を鬼にぶつけるように、2月4日の【2】を【4】にぶつけて遊んでいた。勿論、頭の中にあるピタゴラス的空間での遊びだ。【2】をぶつけられた【4】は【2】と【2】に分かれ…といった感じの遊びだ。(←何の説明にもなってない気がする)。

兎に角。【節分】と【2月4日】の組み合わせは、イメージ的にしっくりくるのである。これに対し【2月3日】はちょっと違う。【2】と【3】は隣り合わせの数字なので、【2月4日】のような分割に適したアパートメントな雰囲気では無く、むしろ逆に、寄り添うようなイメージを持っている。言うなれば、壁にもたれて立っている。或いは、壁際に寝返り打って背中で聞いている。そう、ジュリーの雰囲気だ。

閑話休題。

『節分が2月3日だ』という事を改めて気づかされたのが約十年前。そこがどうにも解せないのである。と言うのも、それ以前の数十年間、“節分は2月4日である”という私の常識はちゃんと世間に通用していたのだから。もしも、本当に節分が遥か昔から2月3日であったとするなら、とっくに気づいていて良さそうなものである。

そこで、一つの仮説を立てた。

もしかしたら私は、知らず知らずの内に【節分が2月4日である世界】から【節分が2月3日である世界】にトリップしてしまったのではないか。それが約十年前の事。

パラレルワールド大好き人間の本領発揮である。

隣り合わせにある2つの世界。その違いは、節分が2月3日なのか2月4日なのか、その一点のみ。それ以外は全てが一致している、ほぼ同一の世界。そう考えると、約十年前、それまで全く気にも留めていなかった節分の日付に、突然、違和感を覚えたという不自然さにも納得が行く。

恐らく皆様の中にも居らっしゃるでしょう。表立って口にはしないものの、(クリスマスイブって、8月10日だったはずなんだけど…おかしいなあ)などと密かに思っている方が。確かに、それはよくある勘違いかも知れません。しかし、実は、貴方の記憶や常識は全く正しくて、世界の方が変わっていた…或いはそんな可能性も…。



〜おしまい〜。