話題:SS


夕飯のクリームシチューを作り始めた時、リビングの電話が鳴った。瓦斯コンロの火を止めてキッチンからリビングへ、受話器を取る。

「もしもし」
「あ、和久ちゃん?」

親しげな切り出し。そして、和久は私の苗字で間違いない。しかし受話器から届いた声は明らかに子供のそれだった。私に子供の友人はいない。少なくとも名前を“ちゃん付け”で呼ばれるような親しい関係の子は。間違い電話だろうか。でも、その声には微かに聴き覚えがあるような気がした。

「はい…和久ですけど…えーと、どちら様でしょうか?」幾らか戸惑いながらも平静を保ち電話に応じる。

「何だ、その大人みたいな言い方。フザケてんのか?」

いや、フザケるも何も私は四十を超えた立派な大人なのだが。

「すみません、どちら様でしょう?」

「だ・か・ら…吉川に決まってんじゃん
…あ、判った。今日、お前の消しゴム勝手に使ったの怒ってんだな?」

消しゴムとは?今日はずっとオフィスでパソコンに向かって仕事をしていて、消しゴムは一度も使ってない筈だけど。

「とにかく、消しゴムの事は悪かったよ。ゴメンな。で、緊急連絡網なんだけど…」

「…緊急連絡網?」

「うん。えっとね、明日の遠足だけど、北口の集合が南口に変わったから」

「えっ、何の話?」

「だから明日の遠足だって言ったじゃん。とにかく、集合場所は南口のバスロータリー前の広場に変更になったから。間違って北口に行かないようにな」

とんと話が掴めない。北口集合…遠足…そして緊急連絡網。まるで小学生ではないか。やはり間違い電話だろうか。それとも悪戯電話か。でも、それにしてはあまりに会話がナチュラル過ぎる。私は狐につままれたような気持ちになっていた。が、そんな私に構う様子もなく、その吉川とやらは更に話し掛けて来た。

「ただ、雨がなあ…この様子じゃ止みそうに無いし。明日の遠足は中止かも知れないな」

「そうなの?」。取り合えず話を合わせる。

「そうなのって、今、土砂降りじゃんか。雷も鳴ってるし。あっ、そうだそうだ!」

「どうした?」

「さっき塾から帰って来たんだけど…裏山公園の一本杉に雷が落ちて、樹が真っ二つに割けたらしい。消防車とか野次馬で大騒ぎになってたぞ」

裏山公園の一本杉はよく知っている。いや、そうじゃない。“知っていた”が正しい。あの大きな杉の木は公園のシンボルのような存在だったが、かなり昔に落雷で失われてしまった筈。あれは確か三十年前。そうだ。あの日はちょうど…。徐々に記憶が甦る。そうだ…あの日はちょうど遠足の前の日でずっと天気を気にしていて…。と言う事はつまり、この電話で話されている事は全て三十年前の出来事になるのか?

思考の枝は更に伸びてゆく。三十年前…吉川…吉川?

「もしかして君、吉川哲也…哲ちゃんかい?」

「だから、そうだって言ってんじゃん!」

そうだ、間違いない。この声は小学校で仲の良かった吉川哲也のものだ。しかし、声は小学生のまま。話の内容も、どう考えても小学生当時のリアルタイムの出来事としか思えない。となると、行き着く答えは一つしかない。それは、この電話は三十年前から掛かって来たという事だ。タイムリープ。電話の。しかし、そんな馬鹿な話があるだろうか?

「おーい、どうしたー?聴いてるかあー?」

「…ああ、聴いてる」

「どうした?何かあったのか?」

「いや…そういう訳じゃないけど」

哲ちゃんの反応に不自然さは無い。と言う事は、向こうには私の声が小学生の時のまま伝わっているのだろう。 三十年前。一本杉に雷が落ちた翌日の遠足。翌朝、奇跡的に天候は回復し遠足は中止にはならなかった。そして…

そうか…そういう事だったのか…。私は思い出していた。あの遠足の日の朝、私は駅の“北口”で皆を待っていた。ところが、集合時間を過ぎても誰も来ない。十分が経ち、二十分が過ぎ、三十分を超え、不安で顔が青くなりかけた時、学年主任の先生が私を見つけて走って来たのだった。そして一言、「何やってんだ、集合は南口だって夕べ緊急連絡網回って来ただろ?」。


―続きは追記からどうぞ―。