話題:SS



私の部屋には古い机がある。アンティークというより単に古くたびれているだけの机は、一番上の抽斗(ひきだし)だけが鍵の掛かる造りになっており、その中に綺麗に折り畳まれた一枚のパラフィン紙が仕舞われている。その独特の折り畳み方は、見る人が見れば懐かしさを覚えるだろう。ひと昔前の病院で処方される内服用の粉薬は、丁度こんな形でパラフィンの薬包紙に包み込まれていた。

薬包紙!では、私の机の抽斗の中にある薄青いパラフィン紙の中に入っているのは矢張り粉薬なのだろうか?

答えは否。そこにあるのは粉薬ではなく一握の砂であり、同時にそれはケンちゃんからの渡航土産でもあった。特に美しいというわけでもない。ケンちゃんはそれを或る小国――国の名前は最後まで教えてくれなかった――の蚤の市で手に入れたと言っていた。

海外まで出掛けておいてお土産がコレかい?不服を隠し切れない私にケンちゃんは「これは今でこそ砂としか呼びようのない代物だけど、昔はそれ以外にも別の名前も持っていたんだよ」と何やら含みのある言い方をした。

どんな名前だい?

「渚」。間髪入れずケンちゃんはそう答えた。

渚?

「そう、渚。いや、それだけじゃない。他にも砂浜とか浜辺とか、包括的な意味合いで海と呼ばれたりもしていた」

ケンちゃんの話に拠ると、この一握の砂はかつては美しい海の美しい砂浜だったという。しかし、海は消失し、後を追うように渚も消えてしまった。海を失った砂浜を砂浜と呼ぶ者はなくなり、それは単に砂と呼ばれるようになった。

「海は、それを海と知る者が居て初めて海となるだよ。渚も然り。ほら、渚という字はサンズイに者と書くだろう?そして、海を海と知る為には陸というものを知っていなければならない。部分と全体――いや、それではまだ半分だけれども――兎に角だ、海は相対的な意味合いにおいて海なのだね」

相変わらず、人を煙に巻くような物言いをする。

「でもね…」ケンちゃんは一呼吸置いて先を続けた。「科学ではまだ実証されていないけど、砂には物事を記憶する能力があるのだよ」

パラフィン紙で包まれた一握の砂。かつては渚と呼ばれていた砂。この砂は今でも自分が海の一部であった時の事を覚えているのさ、ケンちゃんは言う。そして、この砂は、失われた海の失われた渚に残された最後の砂なのだ、と付け加えた。

湖や内海が消えたという話なら聞いた事が無いではないが、彼の口ぶりからするとどうやら消えたのは外海であるらしい。太平洋、大西洋、インド洋…外海が消えたなどという話は未だかつて聞いた事が無い。いったい、何がどうなれば外洋や外海が消失、消滅するような事態が起こるのだろう。

このパラフィン紙の中の砂が失われた海の残滓だというのは、ケンちゃんならではの詩的メタファーなのかも知れない。これは単なる砂でしかなく、実体上はさしたる意味を持たないのだ。そう思った。しかし、そう思いながらも其れは現在、鍵の掛けられた机の抽斗の中に大切に仕舞われている。内緒話のように。

「砂はすべてを覚えているよ。波の音も潮の香りも、人々の喜びも哀しみも、かつて自分が渚と呼ばれていた頃、其処で起こったすべての出来事をね」

もしも、世界の海が全て消えてしまったら、私はこのパラフィン紙の包みを開き、一握の砂を抽斗の中から再び世界に戻そうと思っている。砂がすべてを覚えているのならば、この砂が撒かれた場所から、もう一度、海を甦らせる事が出来るかも知れない。そう考えたからだ。でも、そんな事にならないのが一番いい、何と言っても。

私の部屋には古い机がある。その机には鍵の掛った抽斗があり、その中にはパラフィン紙に包まれて、海が一つ入っている。


【第9夜終了】。