話題:びっくりしたこと


夕暮れから夜に向かう時間帯は人の顔の見分けがつきにくい。誰そ彼刻(たそがれどき)とは、まことよく言ったものである。

正にそんな誰そ彼刻とも言うべき午後6時半。駅前の少し薄暗くなっている場所にどう見ても“その筋の人”としか思えない男が立っていた。“その筋”とは言う迄もなく“893系”(新幹線ではない)の事だ。年の頃は20代後半ぐらいだろうか、辺りが暗いせいで顔はよく見えない。

まあ、別に珍しい事ではない。私はごく自然な感じで男の前を通り過ぎようとした。

その時である。

男「ご苦労様でーーす!」

男がいきなり大きな声で挨拶をしてきたので私は吃驚仰天してしまった。見れば、男は両手を膝の上に置き深々と頭を下げているではないか。恐らくは私の事を若頭クラスの誰かと勘違いしているのだ。明らかな見間違いだ。思いもよらない展開。そして、思いもよらない展開は更に続いた。

私「おお!お疲れっ!」

突然の出来事に驚いた私は、深々とお辞儀をしている男に対し、片手を挙げながら力強い声でそう返していたのである。決して意図した行動ではない。完全に反射的な行動だ。だが、それにより、私は“その筋の上の方の人”になってしまった。

今さら訂正する事など不可能。もはや引き返す道はないのである。男の前から姿を消す迄の数十秒を何とか持ちこたえるしか生き延びる術はない。

私は、顔を男とは反対の方向に不自然にならない程度に少し向け、もう一度軽く手で挨拶をした後、その先にある曲がりたくもない角を曲がり、男の視界から姿を消す事に成功した。背後から「失礼しまーーす!」と男の声が飛んできた。どうやら私が別人だという事は気づかれずに済んだようだ。

彼はいったい何者だったのだろうか?
そして彼の頭の中で、私は何者だったのだろうか?

誰そ彼刻に人はその顔を溶かしゆく。
存在はどろどろのスープとなる。

もちろん、即行でその場を離れた事は言わずもがなの話である…。


〜おしまい(実話)〜。