話題:先生


癖というのはふと気を抜いた時に出やすいものですが、これは必ずしも身体的な癖だけではなく、性質、言うなれば習慣的な思考の癖も当て填まる訳なのです。

さて、それを踏まえた上で。高校の時、同じクラスに佐藤悟史(さとうさとし)君という人がいたのです。サトウサトシと、良い具合に苗字と名前が韻を踏んでいますが今回はそんな事はどうでも良いのです。それどころか、この話は佐藤君とは何の関わりもありません。

私の通っていた高校は、一時間目が始まる前に担任が出欠を取るのですが…ある朝、始業前の教室に姿を見せたのは担任ではなく、別の教師でした。あれ?担任はどうしたのだろう?教室にかすかな童謡が広がります…ウサギおいしあの山〜小ブナ釣りしあの川♪…の童謡ではなく、動揺の方です。

ですがですが、その日担任に何が起こったのか?、それもどうでも良いのです。大した事じゃありませんです。

問題は、担任の代わりに出欠を取りに来た教師。その教師は、ピテカントロプスペキネンシス、俗にいう北京原人を彷彿とさせるグッドルックスで、また見た目通り、文明にあまり毒されておらず自然をこよなく愛する優しい先生でした。

肉体は進化の途中で完全に止まっていますが、中身の方はきちんと人間に進化し切っていますので出欠を取るのは大丈夫。そうして、普段とは異なる形でクラスの出欠が取り始められました。

滞りなく出欠が取られてゆきます。

「伊藤」「はい」「宇野」「うっす」……「栗林」「はい」「紺野」「はい」……そしてついに、あの人の出逢い順番が来ました…「佐藤悟史!」「へい!」…でも、佐藤悟史は関係ありません。問題はその次です。

代打教師「げざん!」

生徒一同「……」

ややあって、一人の生徒がおずおずと口を開きました。

「あの、先生…僕、“げざん”じゃなくて“しもやま”です」

そう。彼の苗字は【下山】。読み方は勿論“しもやま”です。

ここでクローズアップされてくるのが先程書いた『その先生は文明に毒されておらず自然をこよなく愛する人だ』という部分です。彼は、野生児と言って良い程の超アウトドア派で、取り分け、山登りに関してはプロの登山家にも一目置かれる程の存在だったのです。

そんな彼ですから【下山】という文字を見て、思わず“げざん”と呼んでしまった。条件反射。パブロフの犬。名前の出席簿なので、冷静に考えればどうみても“しもやま”なのは判り切っていますが、普段の彼にとって【下山】=問答無用で“げざん”の一択なのでしょう。

ふと気を抜いた瞬間、その人間の普段の習慣、そこから生まれる思考の癖のようなものが出てくる。私は、あの朝のホームルームでそんな事を学んだのでした。


『なぜ山に登るのか?…何故ならそこに山があるから』

『なぜ山を下りるのか?…だって、下りなきゃ次の山に登れないから』

『なぜそんなに食べるのか?…何故ならそこにキノコの山があるから』


という事で…では、また。