話題:突発的文章・物語・詩

夜にチャックがついていた。

もう少し正確に言うと、夜空にチャックがついていた。チャックはズボンやジャンパーのチャックのチャックだ。

夜空が星々の輝きを縫いつけた黒い天鵞絨の布のように見える時、夜の天幕があたかも手の届きそうな近さに思える事がある。そして、ごく稀にではあるが、実際に手が届いてしまう場合が存在する。

その夜はそんな夜だった。

夜空のチャックは北斗七星の少し右側にあり、長さは20センチくらい、燻したような銀色をしていた。当然、チャックの一番上には引き手の金属具があって、それを摘まめばチャックを上げ下げ出来るようになっていた。つまり、そのチャックを使えば自由自在に夜を開けたり閉めたりする事が出来る訳だ。

その夜のチャックは閉じていた。開ける事は簡単で、事実、私は夜のチャックに一度は手を掛けていた。しかし、開ける事はしなかった。

開けなかった理由を説明するのはとても難しい。どうしてもスパゲティを食べたくない昼があるように、その夜はどうしてもチャックを開けたくない夜だった。そうとしか答えようがない。

ところが森のフクロウの言い分は少し違っていて、「君は森の木々を揺らす夜風のざわめきに吹かれて不安になったのさ」。彼に言わせるそういう事らしい。

どちらが正鵠を射ているかは別として、結局、私は夜のチャックを開ける事はしなかった。そして、以来、夜空にチャックを見る事はなかった。


先日、可愛らしい縞リスがクルミを持って訪れそうな樹木めいた雰囲気を持つオープンテラスの小さなカフェで久しぶりに彼女と食事をした。彼女はそれをランチだと言っていたが、ランチと呼ぶには7分ほど遅いように私は感じていた。

彼女は蟹のスパゲティを注文し、私は蟹のスパゲティではない物を注文した。そして、料理が届く迄の暇潰しに私はあの夜の話をした。夜空にジャンパーのチャックがついていた話だ。彼女はハンガリー土産のクルミ割り人形のように黙って私の話に耳を傾けていたが、聞き終えた途端、少し呆れたような表情をみせ、こう言ったのだった。

「ねぇ…恥ずかしいから、そんな事、絶対、他の人に言っちゃダメよ」

(でもね。そうは言うけど、これは本当の話なんだよ)私はそう言い返そうとした。けれども、それより早く彼女の発した次の言葉が私の元に届いたので、私はそのタイミングを逃してしまった。

赤と白の格子柄のテーブルクロスの上を滑って届いた彼女の二番目の言葉はこうだ。

「今は、ジャンパーのチャックなんて言わないの。ブルゾンのファスナーって言うのよ。ね、恥ずかしいから人前でそんな話したらダメだからね」

どうやら彼女にとって、夜空にチャックがついているかいないかは取るに足らない事であるらしかった。

夜のチャックなのか、それとも夜のファスナーなのか。蟹のスパゲティなのか、蟹のスパゲティ以外の物なのか。夜のチャックの向こう側には蟹のスパゲティ以外の何かが存在し、夜のファスナーの向こう側には蟹のスパゲティが在るのだろうか。

判らない。余りにも判らなさすぎて、何が判らないのかすら判らなかった。

こういう、横歩きに最適な日は無性にケンちゃんに会いたくなる。ケンちゃんならば何かしら気の利いた言葉を返してくるに違いない。

しかし、当のケンちゃんは一昨日から行方知れずとなっている。

今は夜のチャックよりもその事の方が少し気がかりだ。


〜第7夜終了〜。


★★★★★

『ケンちゃんと私』シリーズは忘れた頃にやって来る(笑)。そして…話題書き「パスタ」で投稿しようとして寸前で思い止まる私がいるのです…。