話題:連載創作小説


二人が居る部屋の何処を見回しても五千万の札束の姿は無かった。つまり、お金は全く用意出来ていないという事だ。いや、それどころか実は、二人とも身代金の工面には全く動いていなかったのである。

(おいおい!何の為に三時間もやったと思ってんだ!?‥奥さんの金持ちの実家に頼めば五千万ぐらい直ぐに用意出来るはずだろ!?)

犯人は明らかに苛立ち始めていた。それを察した佐智子が、何とかして相手の気を落ち着かせようとする。

「もうちょっと‥もうちょっとだけ待って下さい。実家の父が今晩、お金を持って此処に来る予定になってますから‥」

勿論そんなのは全くのデタラメだ。しかし、今は犯人の気持ちを落ち着ける事が何よりも大切だと佐智子は考えたのである。そして、その思惑通り、佐智子の言葉を聞いた犯人は、幾らか落ち着きを取り戻したようであった。

(そうか‥最初からそう言えばいいんだよ。なあ、あんまり俺を苛つかせるなよ)

「判った、金は大丈夫だ。でも、その前に博之の声を聴かせてくれ。少しでいいんだ。無事さえ判れば身の代金は惜しくない。勿論、博之が帰ってきた後も警察には連絡しない」

電話の中に僅かな沈黙の時が訪れる。どうやら犯人は隆博の懇願に迷っているようだ。すかさず、犯人が僅かに見せた心の迷いに乗じるかのように佐智子が訴えかける。

「お願いします!私たちにも希望をください!声を聴かせてくれたら、あと五百万払いますから!」

その五百万は犯人にとって決定的な数字であった。

(…判った。でも、少しだけだぞ)

そして、犯人の短い言葉の後、電話は保留状態となった。ようやく息子の無事を確認出来るのだ。本来ならば、佐智子と隆博の顔には何と言うか希望の光のようなものが射すはずだ。

ところが、スピーカーから流れてくるトロイメライの余りにも場違いで優美なメロディーを聴きながら、二人の表情はどういう理由(わけ)だか、明らかに先程よりも沈痛の色を濃くしていた…。



《続きは追記に》