話題:写真。


失われた一つの時間が、予め失われていた無数の時間と出逢う時、その集合的無意識のような集合的無時間の中で、失われた時はもはや失われる事なく、永遠の堆積層の中で静かに混ざり合う。その時にはもう、悲しみと喜びの区別など付きようもなく、ただ人称のみが失われるのである。

そう言い残すと、砂の哲学者は自らをつついて静かに崩れ落ちていきました。

手のひらに掬った砂は、指の間からこぼれ落ちてこそ永遠に近づけるのだと、そんな余韻。

なになに…

北風西風どこ吹く風で、意味など判らずとも良いのです。

意味をなくした意味が持つ意味。そんなものもありましょう。

“哲学”に振るべきルビは“ひまつぶし”。つぶしたひまの向日葵(ひまわり)に昨日と明日の風が吹く。

失われた時を求めれば、永遠の形状など誰一人として知りはしない事をきっと誰もが知るのでしょう。


◆追記にプチ後書き◆