話題:大丈夫



ら抜き言葉、語尾上げ発音、「全然――ある」など、かねてより近年における日本語の乱れを憂いていた[聖ジャポニカ学園中等部国語教師]龍川芥之助(たつたがわあくたのすけ)は、3年β組現代文の授業中、やおら白墨を掴むと黒板に次のような一文を力強く書き込みました。

『――逃げた逃亡犯を追いかけていた青木刑事であったが、逮捕寸前、突然お腹が急な腹痛に襲われたせいで犯人を取り逃がしてしまったのだった――』

そして、ギロリと生徒たちに一瞥をくれた後、厳(おごそか)かに言いました。

「不自然なところを直しなさい」

「ハイッ!」。それにいち早く反応したのは学園のオピニオンリーダーであり生徒会長でもある等々力賢太郎くんでした。等々力くんはツカツカと黒板まで歩くと白墨を掴み、『逃げた逃亡犯』という箇所にアンダーラインを引きました。そして、「逃亡犯というのは既に逃げている訳ですから、その前の“逃げた”という言葉は必要なく、そこが不自然だと思います」

芥之助先生が「ウン」と軽く頷くと、周囲から小さな拍手が上がりました。ところがそこに、「ハイッ」、もう一人、手を挙げる者が現れたのです。学園きっての秀才である綾瀬川秀文くんでした。綾瀬川くんは等々力くん同様、黒板まで行くと、「等々力くんの解答は正しいと思います。しかし、敢えて言わせて貰うなら、逃亡犯は確かに既に逃げてはいるけれども、その“逃亡”は犯行現場とか警察署、拘置署など特定の場所や施設からの逃亡――仮に第一次逃亡とします――を指しており、その前の“逃げた”は、その後、追いかけてきた刑事から逃げた事――つまり第二次逃亡――を表している可能性がほんの若干ではありますが有ると思います。そうなると厳密には間違いとは言えず、それよりも、その後に続く、“腹が腹痛に襲われた”という部分と“突然お腹が急な”の二箇所の方が明らかに意味が重複しており不自然だと思われます」と、敢えて現在修得中であるブルックリン訛りの英語で言いました。

綾瀬川くんの発言に投げやりな拍手が起こります。英語なので意味はさっぱり解らないけれども、あの綾瀬川が言うのだからどうせ当たっているのだろう、というある種の諦感がこもった拍手でした。

何はともあれ、これにて問題は解決、誰もがそう思いました。それは芥之助先生も同様でした。ところが、そこに、「は〜〜い」やや間延びした声が響いたのです。

声の主は学園きってのモテ男、ニヒルで風来坊の九条隼汰くんでした。九条くんは額にハラリとかかる前髪を軽くかき上げながら「むしろ……」と椅子に座ったままハンサムな声で言いました。

「むしろ、僕が気になったのはその時の状況なのさ。普通、刑事というのは最低でも二人一組で動くものでしょ?だから、青木刑事が腹痛で離脱したとしても相棒の刑事が犯人を追いかけるはず。ところが、それには全く触れていない。不自然と言えばそれが最も不自然に僕には思えたんだけど、どうですかね?」

言葉ではなく状況の問題。これは盲点です。さすが九条くん。感心したような拍手が上がります。が、当の九条くんは何事もなかったかのように、指の上で器用にペンを回しながら、何事もなかったかのように、窓ガラス越しに流れる雲を見つめています。その端正な横顔にクラス全員の胸が男女問わずキュンとなりました。それは芥之助先生も同様でした。

さすがにこれ以上の答えはないだろう。う思われた時、「ハイ♪」よく澄んだ美しい女性の声が上がりました。

そのオペラの歌姫のような美声の持ち主は、学園のマドンナであり日本を代表する財閥のお嬢様でもある西園寺百合絵さんでした。

クラス全員の視線が集まる中、マドモアゼル百合絵は傍らの学友たちにいちいち「ご機嫌よう」といちいち声を掛けながらゆっくりと黒板まで歩を進めます。なんとも優雅な光景です。それにしても、百合絵お嬢様はいったい何を語るつもりなのでしょう。先の三人により答えは出尽くしたように思えます。クラス全員が固唾を飲んで見守る中、百合絵お嬢様は黒板の前に立つと、突然くるりと振り向き、芥之助先生の頭に手を伸ばしました。

むんず。

そして、その頭髪をむんずと掴み上げると、水平方向で左に約15°ほど回転させたのち、再び頭髪を頭皮に着地させました。それを上から押さえつけるようにポンポンと軽く叩くと、涼しげな眼差しを湛えて言いました。

「この方が自然に見えますわ」

これは盲点中の盲点でした。なんと、事件は会議室(黒板の上)で起こっていたのではなく、現場(頭皮の上)で起こっていたのです。

確かに、教室にある中で“不自然なもの”と言えば、芥之助先生の髪の毛の生え際の浮き上がり方や色つや形が最も“不自然なもの”です。「フッ、こいつは一本取られましたね先生」九条くんが声を掛けると、石像のように固まっていた龍川芥之助先生の頬に赤みが差して来ました。そして、

「四人とも正解です」

その瞬間、嵐のような拍手喝采が教室内に巻き起こりました。しかし、それが誰に対する何の拍手なのかは拍手している本人たちにも判らないのでした。


〜おしまひ〜。