かげらふ日記(虚構)#19『富遊が丘の九条家』


話題:妄想を語ろう


親戚の法事で久しぶり富游が丘(ふゆうがおか)へ行った。親戚と言ってもかなりの遠縁で、日頃の付き合いも全くない。おまけにそれが「百二十七会喜」なる訳の判らない法要と来れば、出来れば出たくないと言うのが本音である(一般的には“回忌”だが、この地域では“会喜”と書くらしい。確かに「忌まわしさが回って来る」よりも「会える喜びが来る」方が縁起は良さそうではあるが)。

亡くなってから127年。当然、故人を直接知る者は居らず、場には悲しみもなければ喜びもなく、終始乾いた空気に包まれる事になる。リアリティがないのである。そんな訳で午前10時に始まった法要も正午前にはお開きとなった。本家筋と親(ちかし)い付き合いのある者たちは昼食の会席に向かうが、それ以外はそそくさと帰途につく流れとなる。“そそくさ班”の私は、そそくさと会場を後にして最寄りの駅へと向かったのだった。

今日は完全オフ(有給)の上、時刻もまだ早い。おまけに天気も良い。という事で、帰りはタクシーを呼ばずテクシーとした。テクシーとは「テクテク歩いて帰る」、つまり徒歩を表す昭和のお洒落言葉である。

富遊が丘は、その縁起の良すぎる名前が表すように、何もせずとも遊んで暮らせる富裕層が伝統的に数多く暮らしている土地だ。否。数多く、ではない。お金持ちしか住んでいないのである。町並みも大層立派なお屋敷や文化財的価値のある建造物が軒を連ね、見ていて飽きる事がない。緑も多く空気も清涼なので散歩がてら歩くにはもってこいの町なのである。

そんなこんなでぶらぶらと歩を進めていると、偶然にも別の法事に出くわした。ひときわ大きなお屋敷である。王城かと思える巨大な門の向こう側に喪服姿の人達が大勢集まっている。さぞや名のある家に違いない。歩を止め、感心しながら眺めていると、「ああ、どうも」、私に声をかける者があった。歳の頃は六十年輩、恰幅の良い押し出しの強そうな風貌ながら気品がある為に威圧感はない。

不意を突かれて一瞬戸惑うも、相手が誰かは直ぐに判った。社のお得意先、大口の顧客の一人である九条甚太郎氏だ。私は直接の担当ではないが、商談や接待のゴルフで何度か同席した事があるのでお互いに見知っている間柄である。旧財閥の流れを汲む大資産家なのは知っていたが、自宅が富遊が丘というのは知らなかった。大未資産家と高級住宅地、考えてみれば不思議はない。

「これはこれは、わざわざお越し頂き、すみません……」。……ん?九条氏の言葉にハテナマークが浮かぶ。偶然出会っただけなのに、“わざわざ”とはどういう事だろう?「さあ、どうぞどうぞ、お入りになって下さい」。屋敷内に私を招き入れる九条氏。そこで私はハタと膝を打ったのである。

私は喪服を着ている(着替えを持ち歩くのが面倒なので行き帰り共に喪服を着用)。そして此所では法事が執り行われている。となれば、何処からどう見ても私の姿は弔問客のソレである。まさかこの段で、「いえ、私は親戚の法事に出た帰りで、たまたま通り掛かっただけなのです」とは言えまい。そんな事をすれば今後の取引に影響を及ぼす可能性もある。仕方ない。ここは弔問客になりきる事にする。

【故 チャン・五木 七会喜法要】

チャン・五木氏が誰なのかまるで知らない上、非招待の飛び入り参加とは言え、それなりの金額を包む必要はあるだろう。幸い予備の香典袋は持っている。先ずは洗面所を借り、そこで幾らか包む事にする。さて、こういう場合はどれくらい包めば良いのだろう。故人との関係性の低さ(と言うか、“無さ”)を考えれば5千円もあれば十分か。が、ここは超セレブな町、富遊が丘である。一般的な金銭感覚が通用する保証は何処にもない。ここでは5千円が50円くらいの感覚かも知れない。それに、一応は会社を代表して来ている形であり、相手は大お得意先の九条氏である。それなりの額を包む必要があると考えて然るべきだ。と言うことで財布の中の諭吉さん7人を全部包む事にした。5人でも十分だとは思うが、行く時はとことん行った方が良い。

法要は、ざっと見渡す限り三百人を超える壮大なものであった。さすが名門中の名門・九条家だ。故・チャン五木氏が誰なのか、なぜ姓が違う九条家で法要が行われるのかはサッパリ判らないが、恐らくはひとかどの人物なのだろう。

それにしても、遺影というか生前の写真の一枚も掛けられていないのが少し気になったので、横にいたデヴィ夫人によく似たオバサマにそれとなく五木氏の写真について訊ねたところ、「さすがに写真は無いわよ。あーた、ちょっと常識ないわね」と笑われてしまった。そして、なぜ笑われなければならないのか判らずポカンとする私に、追い討ちをかけるように偽デヴィ夫人は言ったのである。

「それと“いつき”ではなくて“ごき”。ゴキブリさんですから」

チャン・五木→チャンごき→ごきチャン→ゴキブリちゃん!。偽デヴィ夫人曰く、チャン・五木氏とは7年前に九条家の食堂の〈ゴキブリほりゃほりゃ〉の中で天に召されているのが発見されたゴキブリだそうだ。ひとかどの人物どころか人物ですらなかった。いやはや、ゴキブリにすらこのような盛大な供養をするとはさすが九条家。或いはこれが富遊が丘のスタンダードなのかも知れない。私はすっかり感心してしまった。と言うより……

ゴキブリに7万も包んでしまったではないか!!

これ、経費で落ちるかな?そんな事をつらつら考えながらの帰り道、信号機は相変わらず四色で、白色が点灯するたびに皆が阿波おどりを踊っていた。

どうやら、パラレル世界から抜け出す日はまだまだ先になりそうだ……。


〜おしまひ〜。


かげらふ日記(虚構)#18「パラレル世界へ」


話題:短文


1月1日【金曜日】

(晴れ、ときどき、ドリフ大爆笑の笑い声(ゲラ屋))

どことなく中村アンに似ているニワトリの鳴き声で目を覚ました朝。元旦。

朝食を食べてからシャワーを浴びるか、それともシャワーを浴びてから朝食を食べるか。いつになく迷った。迷いに迷った。散々迷った挙げ句、ワケが判らなくなり、気がついたら“朝食を浴び”、“シャワーを食べ”ていた。

そのせいだろうか。どうにも様子がおかしい。自分ではなく周り、つまり、私を取り巻く世界の様子がおかしいのだ。

異変に気づいた切っ掛けは信号機だった。私の知る世界(日本)では信号機の色は赤と黄と青(緑)の三つと決まっている。ところが、今いる世界ではその他に白色があり、白が灯ると全員一斉に「阿波おどり」を踊り始めるのである。歩行者だけでなく、車を運転している人や乗車している人も皆踊る。どうやら交通法規でそのように定められているらしい。そんな事は知る由もないので、呆気にとられながら突っ立っていると、何処からか制服姿のお巡りさんが飛んで来て「次からはちゃんと踊るように」とこっぴどく怒られてしまった。

異なる部分は信号だけではない。例えば「靴下」もそう。私の持ち合わせていふ常識では、先ず靴下を履いてから靴を履くシステムになっている。ところが此所では、誰もが素足に直接靴を履き、それから靴下を履くのである。なんとも言えないカッコ悪さと心地悪さがそこには存在していた。だが、考えてみれば“靴の下”で“靴下”なのだから、こちらの方が正しいと言えば正しいのかも知れない。もっとも、“靴の下”ではなく“靴が下”という逆の捉え方もある事を申し添えておく。

他にも、プロ野球の日本シリーズでは圧倒的な強さを誇るヤクルトがオリックスを4勝0敗で下し4年連続の日本一に輝いていたり、その監督が長嶋一茂氏で知将と呼ばれていたり、私の知る世界では有り得ない事が平気で起こっていたりする。ちなみに、セ・リーグはセントラルリーグではなく[センチメンタルリーグ]で三振したりエラーした選手はさめざめと泣き、パ・リーグもパシフィックリーグではなく[パンタロンリーグ]でユニフォームのズボンは70年代のヒッピーのようなラッパ型となっている。

これは、どう考えてもパラレルワールドとしか思えない。さて、どうしたものか。私はすっかりヘイコー(閉口)してしまった……ヘイコー世界(並行世界=パラレルワールド)だけに。

よし、大丈夫だ。

こういう素敵な駄洒落が思い浮かぶのは心にまだ余裕がある証拠。これなら何とかなりそう気がする。兎にも角にも、これにて今年の目標が決まった。

『再び元の世界へと帰還する』

スタートレックシリーズで言うなら、別宇宙域から地球への帰還がストーリーの主軸となる【ヴォイジャー】だ。

そういった訳で今年―2021年―の『かげらふ日記』は、虚構である上さらにパラレルワールドであるというダブル処方でお届けする予定であります。

愚駄愚駄になりそうな予感がした方、どうか安心して欲しい、何故なら、私には“予感を遥かに超えた確信”があるのから。


〜おしまひ〜。


かげらふ日記(虚構)#17「人事異動リベンジ編」


話題:妄想を語ろう

待ちに待った日がついにやって来た。言う迄もなく[人事異動]の内示が下される日だ。

仕事とは無関係の些細なミスにより【草むしり部・イボイボ軍手課】に飛ばされ、はや三月、ついにチャンスがやって来た。そして今回、私には絶対的な自信があった。と言うのも、次の異動に向けた一手を早々に打っていたのである。チャンスの女神の前髪を何としても掴むのだ。

前回、痛恨の内示が下りた直後、人事部の実力者である長谷川課長(ぐいぐい課長A)と偶然にも話す機会があり、その時に彼の趣味がドライブ(愛車は車検の切れたコスモスポーツ)である事とドライブ中にちょっと古めのベタな歌謡曲やポップスを聴くのが好きだという事を知った。そこで私は、ドライブのお供として良さそうな曲を集めてオリジナル編集したカセットテープを作り(長谷川課長はラジカセを愛好している)、彼に進呈したのである。長谷川課長に気に入られれば出世は約束されたようなもの。次の異動先は間違いなく花形部所になるだろう。

まずはA面。幕開けを飾る1曲目にシャカタクの「ナイトバーズ」。2曲目も再びシャカタクで「インヴィテーション」。ドライブにジャストフィットするシティーポップはアップテンポなインストゥルメンタルナンバーだ(←ルー大柴が憑依か?)。3曲目で「ナイトバーズ」に戻り、4曲目は再び「インヴィテーション」。以下、その2曲の繰り返しが永遠に続く。兎に角、愚直な迄にシャカタクで押し込む突き押し相撲という訳。

そしてB面。(またシャカタクが来るのか!?)。怖れおののく中で流れ出すのは、意外にも氷川きよしの「ズンドコ節」だ。ドライブに合うとも思えない選曲だが、シャカタク地獄から解放された身には心地よく響くに違いない。それに次ぐ2曲目はドリフターズの「ズンドコ節」。更に嫌な予感は的中する。そう、小林旭の「ズンドコ節」が3曲目なのである。

(次は誰のズンドコ節!?)となった所で、聴こえて来るのは、驚くなかれ、古今亭志ん生(5代目)の「火焔太鼓」。落語である。もはや音楽でも何でもないが、最早そんな細かい事はどうでもいい。いかに相手の裏をかき、心を揺さぶる事が出来るか、そういう勝負なのである。

落語の次は、講談か?はたまた浪曲か?

否。流れ出すのはイルカの鳴き声と波の音。日光浴ならぬ[1/fの揺らぎ]をたっぷりと全身に浴びる音楽浴となっている。そして、そんなエコな流れを受け継ぐ形でB面を締め括るのは、100と8つのゴーン。カルロス・ゴーンではなく、除夜の鐘のゴーンである。煩悩退散。ゆく年くる年。少し早いですが、皆様、明けましておめでとうございます。

何度見直しても全くスキのない完璧なプログラムだ。余ほど大きなヘマさえしなければ、次の人事異動ではかなりの昇進が見込めるだろう。

……と期待に胸を膨らませて迎えた人事異動の内示通達日。発表は前回と同じく、各自のデスクのパソコンに通知が届く形式となっている。さあ、異動先は念願の【宇宙探査事業部】か、はたまた【新世代エネルギー開発部】か。緊張しながら通知を開く……

《辞令》――汝、【総合サポート部・縁の下支援方面・般若心経課】への異動を命ず――

いやいや、待て待て、そんな筈はない。が、何度目を凝らして見ても文言に変わりはない。【総合サポート】と言えば聞えは良いが、実質的には使い走りである。しかも【縁の下支援方面】とは俗にいう“縁の下の力持ち”的な役割――つまりは全く陽の目を見ない地味な部所だという事だ。事実、【縁の下支援方面室】は社屋F棟西側の縁側の下にある。そこで皆、雨宿りをする猫のようになって仕事をするのである。

大きくジャンプアップする予定が、多少上向きとは言え、これではほぼ横滑りではないか。B面ラストの[除夜の鐘]が恐らくは失敗の原因。お寺とか仏教が好きだと思われたのだろう。それで【般若心経課】への異動となった。ちなみに【般若心経課】の主な仕事は、般若心経を詠唱し続け、会社の業績アップと規模の拡大、社員及びその家族の健康増進、出張等旅行における道中の安全、社員食堂のメニュー充実などを祈りながらひたすら般若心経を読経する、というものになっている。ミスをした社員と共に写経をする事もある。会社というよりは密教の寺院である。まさか、そんな所へ飛ばされる事になろうとは……。


昼休み。喫茶室をも兼ねている談話室で同期の野々村(かぴかぴ平社員C)とばったり遭遇。【未確認生物探索部・屈斜路湖クッシー課】への異動が決まったとの事。大出世だ。同期にも関わらずかなりの差がついてしまった。が、まあ、既に決まってしまった事は仕方ない。取り合えず【草むしり部】から脱出出来ただけで今回は良しとすべきだろう、と前向きに捉え、次のチャンスを待つとしよう。


〜おしまひ〜。


かげらふ日記(虚構)#16「最新式健康診断」


話題:突発的文章・物語・詩


『健康診断』

会社の要請により健康診断を受けに病院へ。何やかんや理由をつけて十年以上逃げ続けていた健康診断だが、今回は半強制的な“業務命令”という事で受けざるを得なくなってしまった。

久しぶりの病院。それも町の医院ではなく巨大な総合病院だ。そびえ立つ白い巨塔に思わず緊張する。とは言え、此処まで来て逃げ出す訳にもいかないので、腹を括って入口のドアをくぐる。

それにしても、健康診断ほど悲しいイベントはそう無いだろう。異常ナシで現状維持、0。異常アリならマイナス。つまり、0かマイナス、その二つしかない引き算のイベントなのだ。これがもし――「この調子で行けば水の中で呼吸が出来るようになるので頑張って」とか「ああ、もう直ぐ羽根が生えてきて空を飛べるようになりますねぇ」――といったプラスの事象が発生する可能性があるのなら、少しは行ってみようかなという気持ちにもなるのだが。

そんな事を考えながら足取りも重く最初の検査に向かう。苦しい検査とかは本当に勘弁して欲しい。が、身構える私の心配をよそに、途中いくらか待たされたものの、特に問題もなく全ての検査が終了した。[案ずるより産むがやすしきよし]とはよく言ったものだ。取り合えず肩の荷を下ろす。検査結果は後日改めて……かと思っていたら、そのまま待ち合い室で待つようにと言付かる。どうやら今は結果が出るのも早いらしい。なるほど、医学も日々進歩しているのだろう。

そんなこんなで待ち合い室の壁に駆けられているよく判らない抽象画をボケーっと見つめて過ごす事40分、ついに名前が呼ばれた。抽象画の中の“どっちを向いているのかよく判らない顔の人”に向かって小さく「行ってくる」と声を掛け、勇躍、診察室の中に足を踏み入れると、其処には信楽焼の狸の置物によく似た初老のドクターが此方を向いて座っていた。表情が少し曇っている。何か問題でもあるのだろうか。

「血液検査なんだけど……正直、良くないですなあ」

スーッと血の気がひいてゆく。どの辺が悪いのだろう?

「冷蔵庫の中にね……」

えっ?冷蔵庫?呆気に取られている私に構わずタヌキ医師は言葉を続けた。

「冷蔵庫の中。消費期限の切れた食品とか調味料が山のように入ってるよね。ほんで、もっと酷いのが冷凍庫だ。20年ぐらい前の牛肉とか入ってるでしょ」

あっ!そう言えば確かに、昔、バーべQした時の残りの牛肉が冷凍庫の一番奥で眠ったままになっている。私ですら忘れているような事を、いったい何故、先生が知っているのだろう。

「そういうの、今、全部数値で出るから。誤魔化せないよ」

数値?冷蔵庫の中が数値で判るのか?

「判ります。今はね、大抵の事は血液検査で判るんですよ」

こいつは驚きだ。まったく、医学の進歩には目を見張るものがある。

「お休みの日にでも思い切って冷蔵庫の中を片付けて下さい。そうしないと[エントロピー増大型冷蔵庫内カオス症候群]になる可能性が高いです」

それは大変だ!でも、そうしたいのは山々なのだけど、何かここまで放置すると冷蔵庫のドアを開けるのが怖くて……。

「そしたら、“勇気の出る薬”お出ししましょうか?」

いや、要らないです要らないです。そんな危なそうな薬、要らないです。自力で何とかします。

「そうですか。……あとの検査は特に問題ないようなので冷蔵庫の中だけちゃんとして下さい。一応、ノ〇スメル出しときますで使ってみて下さい」

有り難うございます。

「あ、それから……秘書室のチョビちゃん、貴方には気がないので誘っても無駄ですよ、残念だけど」

えっ、それも……

「血液検査で判ります。では、そういう事でお大事に」

まったく、トンデモない時代になったものだ。というか、何故チョビちゃんを知ってるんだ?あ、そうか、秘書室の連中も健康診断受けたのか。ほんと、個人情報も何もあったものではない。来年の健康診断が今から恐ろしい。でもまあ、考えようによってはプラスの出来事が発生する可能性が出てきたとも言えるので、取り合えず良しとしておくか。


〜おしまひ〜。

かげらふ日記(虚構)#15「再び、人事異動」


話題:妄想を語ろう


◆◇◆◇◆◇◆◇

『人事異動、再び』

○○月××日【月】(晴れ、ときどき、蝉しぐれ、たまーに、浪花恋しぐれ)


私の勤務する世界的企業《ギャラクシー・フロンティア&スシ・ニンジャcompany》では頻繁――年に数回以上――の人事異動が行われる事は以前お話しした通り。多種多様な経験を積ませる事で社員一人一人の視野を拡げて発想の引き出しを増やし対応力を高めるのと同時に、より広い人的交流を促す為である。

確か前回の日記では花形部所の一つである【おもてなし事業部・おいでやす第2課】から【アッチを見ろ事業部・ソッチを見ろ第3課】への異動、及び、役職が〈めそめそ平社員A〉から〈のびのび平社員B〉へと昇進した旨を書き記したと覚えている。

実はその後も数回の人事異動があったのだが、それらは何れも同一部内で課が移るだけの小規模なものに留まっていた。具体的には――ソッチを見ろ第3課→コッチも見ろ第1課→ソコは見ちゃダメ第4課→見ちゃダメとか言われると逆に見たくなるよね第2課(現在部署)。振り幅の広い異動を基本とする当社には珍しい控えめな人事だ。何故このような事態になったのか、社内では様々な噂が飛び交ったが真相を知るのは【本社統括人事部】のみである。その【本社統括人事部】というのがまた謎のヴェールに包まれた部所であるのだが……それについてはまた機会を改めて書き記そうと思う。

兎にも角にも久々の大きな人事異動。否が応にも社内の緊張感は高まる。当日の朝、社内の空気は目に見えて判るぐらいピリピリしていた。冬でもないのにドアノブに触れるとピリっとくる程だ。

さて、これまで異動の内示は社員食堂の壁に貼り出されるのが慣例であった。何故そんな場所で発表されるのか。勿論それには歴とした理由がある。花形部所や望み通りの異動を得た者は嬉しさのあまり高級なワインやシャンパンを開けたくなるだろう。逆に悔しい異動となった者はストレスでヤケ食いをしたくなる。発表の場が社員食堂であれば、その場で直ぐに祝杯をあげられるし、ヤケ酒も呑める。同時に社員食堂の売り上げも伸びる。まさに一石二鳥。ウィンウィン。それが理由だ。

ところが今回は少し勝手が違う。密を避ける為、各自デスクのパソコンに全社員の異動先一覧が届く方式が採られたのである。

午前10時、机のパソコンに人事部から新着メールが届く。内示だ。クリックリし、一覧表を開く。一応、異動先の希望は〈宇宙開発部・火星探査課〉と届け出てある。果たして願いは聞き入れられたのか。緊張の中、リストをスクロールして自分の名前を探す。あった。ほどなく自分の名前を見つけた私は異動先を示す矢印の先に目をやる。

→→汝【草むしり部・イボイボ軍手課】への異動を命ず。合わせて〈のびのび平社員B〉→〈よぼよぼ平社員A〉へ降格とす。

がびーーーん(昭和の擬音)。

【草むしり部】は主に中庭など敷地内の草むしりを行う部門だ。当然、人気はなく、此処への異動は事実上の左遷といえる。そう言えば先月、社長とエレベーターに乗り合わせた際、うっかり“すかしっ屁”をしてしまった事があった。7、8人乗っていたのでバレないだろとタカを括っていたが、どっこい、見抜かれていたようだ。今回の左遷はそれが響いたに違いない。しまった。ジョージ・ワシントンのように正直に申し出れば良かった。

が、悔やんでも仕方ない。ここは2秒で気持ちを切り替える。これは十分に挽回出来る失敗だ。それに【イボイボ軍手課】ならば、そう悪くはない。【素手課】や【片手のみ使い古し軍手課】に比べれば天国だ。我が社の中庭は東京ドーム20個分の面積を誇るので軍手の有る無しは生死に関わる大問題なのだ。まずは【イボイボ軍手課】で成果を上げ【鎌・ナタ課】への異動を目指すとしよう。

問題は〈よぼよぼ平社員A〉への降格だ。これにより今まで得ていた貴重な権利を幾つか失う事になる。大半は取るに足らないものだが、極めてキビしいものが二つある。まずは「仕事中のYシャツの袖まくり禁止」。これはキビしい!男も女も袖を捲ってからが本当の勝負だろう。大体、腕捲りせずに良い仕事をした人間など未だかつて見た事がない。良い仕事が出来ないという事は昇進が見込めないという事でもある。それは困る。

そして二つめ。「仕事帰りのバッティングセンターへの立ち寄り禁止」。これは相当痛い!仕事帰りのバッティングセンターこそ明日への活力の源である。日本のサラリーマンなら誰でもそうだ。逆に言えば、仕事帰りに気持ちよくバッティングセンターで汗をかきたいが為に人は昼間働くのである。「バッティングセンターに行くな」という事は「仕事をするな」という事と同じである。これは遠回しなリストラ勧告と捉えて然るべきだろう。

どうやら、これは早急に〈よぼよぼ平社員A〉から昇進する必要がありそうだ。と言うか、実は既に手は打ってある。それに関してはまた次回の日記で、花形部所への華麗なる返り咲き、及び、肩書きのランクアップと共にお届けしようと考えている。


〜おしまひ〜。



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