話題:突発的文章・物語・詩



仏訳というのは仏さまによる翻訳なのだ、と天使のような純白の心で思っておりました。同時に、仏料理は仏さまの料理、つまりは精進料理を指すものであると。

ところが、人は言うのです。仏はフランスを表しているのです、と。

ならば、神社仏閣の仏閣とはヴェルサイユ宮殿の事であり、手向けられるべき花は菊ではなく薔薇の一輪、そして、仏間とはフランス風のお部屋になるのでしょうか。赤青白、何とも床屋的なトリコロール色の仏壇を開けると、広がるのは花の都パリー、その街並みにエッフェル塔がそびえている。そんな風景こそが正解だと言うのでしょうか。

ええ、パリではなくパリーと音を伸ばすところに個人的お洒落があると、個人的には思うのです。伸ばさないならば、パリのリをリとは発音せず、ヒ(ィ)と鼻に抜けるように言うのが洗練されたフレンチスタイルであると、わたくしは考えるのです。(ィ)は人が聴き取れるぎりぎりの音量で、言葉を発するのではなく、吐息をもらすように。パリーの憂鬱。ヴォードウォーク。否。ヴォードレール。non 。ヴォドレェル。仏像がフランス人形であるならば、奈良の大仏は夢見るシャンソン人形なのでしょうか。

ああ、やはり変です。これは変です、いけません。

ことは仏のみではありません。独もそう。独語というのは、独りの独りによる独りの為の語らい、つまり、独り言であるのだと赤子のように無垢な気持ちで信じておりました。ところが非情にも、独語とはドイツ語なのだと、この世に生きとし生ける人々、ホモサピエンス、ヒューマンビーイングたちは言うのです。

ならば、独身とは、心は日本人のまま身体だけがドイツ人になってしまう事なのでしょうか。あんまりと言えばあんまりです。心と身体の国籍が違うなんて。そして、そのように心と身体のバラバラな人たちが、悪びれもせずにのうのうと集まり暮らす場所こそが独身寮だと、世間の人々は言うのです。独占欲とは、身の回りをドイツで埋め尽くしたいというバウムクーヘンな欲求であり、そうはさせじと独占禁止法が制定されたのだと。

独料理も右に同じく。独身者が独りで適当に作って食べるペヤングやサッポロ一番などのインスタント料理、贅沢をしてもせいぜい牛丼かラーメン、それが真の独料理ではないのでしょうか。もしも、独をドイツとするならば、独眼竜の伊達政宗など、眼だけがドイツ人のゲルマニウム武将になってしまいます。独裁はドイツの盆栽かドイツの裁判所。ああ、もう、何が何やら判らなくなって参りました。

ただ、これだけは……米国というのは、米処である新潟、つまり信濃の国であるという……これだけは、確かな事でございますよね。


〜おしまひ〜。