話題:久々更新


市民運動場の競技トラックの片隅で先程から妙な走りを短く繰り返し続けている男がいた。スキップのような走り、短距離走のスタートダッシュっぽい走り、欽ちゃん走り、使いっ走り。走り方がてんでバラバラで一定していない。はて、これは何の運動なのだろう。気になったので訊ねてみると、男は「自分は助走の練習をしている」と言った。助走と言うと…走り高跳び? 棒高跳び?それとも走り幅跳び?いや、体操の跳馬だろうか?が、男は私の予想を全て裏切る形でこう言ったのだった。

「ただの助走です」。

おかしな話だ。助走とは、その後に続く何らかの運動をスムーズに行う為の、あくまで予備動作に過ぎない筈だ。だから“助ける走り”と書く。私は極めて真っ当な意見を述べた。すると、彼は「メロスは走った」、何の脈絡もなくそう呟いたのである。

「メロスは友を助ける為に走りました。ならばメロスの道程も“助走”と呼べるのではありませんか?」

確かにそうかも知れないが、何故ここでメロスなのだろう。「メロスは走り終えた後、背面跳びでバーを超えましたか?」。いや、それはしていないと思う。「友を助けた後、メロスは幅跳びや体操の跳馬、或いは槍を投げたでしょうか?」。いや、それもしていない筈。

「つまり、【走れメロス】という小説は“助走”こそが真の主役なのです。助走を終えた後の“友を救った”と言うのは単なるフィニッシュ、着地に過ぎません。救うのは友でも良いし金魚でも良かった」。えっ、金魚すくい?「はい。金魚すくい、どぜうすくい、その辺りの対象は実は何でも良いのだと思います。大切なのは“助走”には類い稀な価値があるという事です。着地は助走の集大成に過ぎないのです」。

何だか判るような判らないような。“助走”がそこまで価値のあるものだとは、ついぞ気づかなかった。でも、言われてみれば確かに“助走”には他にはない緊張感があるような気がする。助走中にしか出現し得ない世界。或いはそんなものがあるのかも知れない。

「そうです。もしかしたら近い将来、“助走”がオリンピックの正式種目になる日が来るかも知れない…そう思って、助走の練習をしているのです。今のところ、“助走そのもの”の練習にしているのは私だけなので、このまま行けば金メダルも夢ではありません」

“助走”がオリンピックの正式種目か。そうなったら凄いが、正直どんな感じになるのかまるでイメージが湧かない。

「仰有る事はごもっともです。“助走する姿”は正直少々間が抜けています。例えば走り幅跳びの不自然に斜めに切れ込んで来る助走…もし、デートで遅れて来た相手がそんな走り方で“ごめんごめん、待ったあ?”などと近寄って来たら思わず身構えてしまうでしょう」。

確かに。つぶさに観察すると“助走”って意外と変な動きだったりするからなあ。

「そうです。“助走”の真価は容易には理解し得ない。はっきり言って“助走している姿”は誰もがうつけ者。助走者は皆◆アホの坂田師匠◆と言っても過言ではありますまい」。

いや、過言でしょう。しかし、まあ、競技全体を見渡す目が無ければ“助走”の役割も掴めない訳で、役割が掴めなければ、その動作の意味も理解する事は出来ない。そう考えると“助走”というものは意外と奥が深いのかも知れない。だとしても、オリンピック正式種目になるとは思えないけれども。

「ええ、かなり難しい。だいたい採点方法の見当が全くつかない。しかし、それはそれで特に構わないのです。それもこれも含め、全てが“助走”であると、私は最近そう考え始めているのです。ところで…長い距離を走り続けていると精神が不思議な高揚を示す場合があるのをご存知でしょうか?」。

ああ、それなら知っています。いわゆる“ランナーズハイ”ですよね。或いは“マラソンハイ”。

「ええ、そうです。私の記憶に誤りが無ければ、シャネルズの歌にもそんな物がありました」。

いや…その記憶は大きく誤っているかと…それ、多分、“ランナウェイ”とゴッチャになってます。

「まあ、それは兎も角、その不思議な精神の高揚は何も長距離走に限ったものではないという事を、私は、何度も何度も短い助走を繰り返す中で発見したのです。“助走”は確かに別の独自世界、言うなれば“助走世界”へと繋がっている。と言うのも、中学三年の或る昼休み、当時仲の良かった玉野くんというクラスメートが不意に私の耳元でコソッと言ったのです。“助走はいいね”と。そして、“助走は癖になる”とも。当時の私はその事に対し特に何も思いませんでした。ですが、その後、玉野くんが[新宿二丁目]という独自の世界へと見事に着地を決めたという話を風の噂で聞くにあたり、ようやく納得を得たのです。やはり“助走”には異世界へとトリップさせる力があるのだ、と」。

あの…そのジョソウって“助走”ではなく“女装”では?…と思ったが、私がそれを言う前に男は話の先を続けた。

「それからの私は、この世に存在する全ての“助走”を究めようと来る日も来る日も“助走”の練習をし続けました。そうこうする内、走る者特有の精神の高揚を度々感じるようになりました…そして、そんな“助走S’ハイ”の異世界トリップの中で、私はとても重要な事を知ったのです」

とても重要な事。それは何なのですか?

「それは、この世界の全てが実は、いずれ来るべき何らかの瞬間に向けての“助走”である可能性がある、という事です」

いずれ来るべき何らかの瞬間?それは、いったいどういうものなのだろう?

「それは私にも解りません。ですが、恐らくそれは、ある種の“幸福な着地”のようなものだろうという気はしています」

つまり貴方は、世界の全てがその“幸福な着地のようなもの”に向けて“助走”している、と。

「そうです。地球が太陽の周りを巡るのも、こうして貴方が私に話し掛けて来た事もやはり“助走”に過ぎないのです。私は祈ります。どうか、貴方のこの“助走”が“幸福な着地”に繋がりますように」

何だか最後の方がインチキ宗教家みたいでちょっとくすぐったいが、取り敢えず、ありがとう。…とは言ってみたものの意味が不鮮明である事に変わりはない。何だか妙な気分だ。私は男に練習の邪魔をしてしまった事を軽く詫び、その場を離れた。そして考える。この“助走する男との出会い”という“私の助走”を男の言うところの“幸福な着地”へと繋げるにはどうすれば良いのだろう?

更に考える。日々の暮らしの中で、一見すると何の意味もないような出来事や場面に出くわす事はままある。例えば、道に手袋が片方だけ落ちている、そんなシーンだ。普通は横目に通り過ぎるだけで気にも止めない。しかし、それを“何かの助走”だと思って改めて見直せばどうか。もしかしたら、今までとは少し違ったふうに見えるかも知れない。或いは、見えない迄もそこに何かを感じられるようになるかも知れない。

そんな感じの“街と人のスケッチ”を書いてみてはどうだろう。そこには、はっきりそれと判る“起承転結”はない。だからドラマとしては不十分で書くのが憚(はばか)られてしまう。が、“助走”であるならば話が完結しなくても構わない。オチは必要ない。別に、楽をして書こうとか、オチを考えずに思い付きのみで書き散らかそうとか、そういう事ではない。新しいシリーズ。シリーズタイトルは…『助走する街の風景』或いは『助走する人の風景』…いやシンプルに『助走する世界』か。よし、これで行こう。キーワードは、「短く、オチなく、たどたどしく」で決定。繰り返し言っておくが、楽をして書こうとか、後々言い訳出来るようにしようという悪企みではない。

2016年。今ここに【リハビリ文芸】という新しいジャンルが誕生した。


〜おしまい〜。

【追記に編集後記あります】
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