話題:エッセイ


ある時刻になると町全体が不思議な甘い香りに包まれる。

以前、暮らしていた町の話。

その時刻は夕方の四時。ただ、毎日ではない。月水金だか火木土だか、甘くなる曜日は決まっていたように思う。その特定の曜日の午後四時になると何処からともなく甘い空気が町に流れ込んで来て、ほどなく町全体が甘い空気に包まれる。建物も路地も空地も、町の全てが甘くなる。まるで、お菓子で作られた町のように。

その甘さは果実や花の放つ自然物の甘さとは明らかに違っていた。それでいて、何処か懐かしい。この香りを私は確かに知っている。そんな確信があった。が、何の香りなのか、それがどうしても思い出せなかった。

そんな、ある日の夕方。時おり吹く風に乗って、例の甘い香りが通りを歩く私の元へと運ばれてきた。時計を見ると午後四時を少し回った辺り。いつもの時間だ。その日は朝から小雨が降り続くグズついた天気で、夕方になり風が吹き始めていた。その、強い風に乗って届いた甘い香りは、いつもより一際強烈に私の鼻腔をついてきた。

ある一つの考えが私に浮かぶ。

「もしかすると、風が吹いてくる方角、つまりは風上に、この甘い香りの発生源である何かが存在するのでは無かろうか?」

そう考えると、普段よりも香りが強烈である事の辻褄があう。絶対と迄は言えないものの、その可能性は決して低くはない筈だ。私は進路の変更を決定し、風上を目指して歩き始めた。其処に甘い香りの正体を求めて。

それは決して楽な行程ではなかった。何せ、常に向かい風になるよう、わざわざ選択して歩いているのだ。風向きとて必ずしも一定というわけではない。どれが甘い香りを真っ直ぐ運んでくる風なのか、そこを見極めなければならない。おまけに、小雨とは言え雨降りである。引っ越して来て間もないので、土地勘もあまりない。せめてもの救いは、初夏という季節のお蔭で日が長い事だった。もっとも雨なので曇天ではあるのだが。

そのようにして、どれくらい歩いただろうか。私の行き着いた先には、煤けた灰色をした堅牢なコンクリートの塀が世界を分断するかのように無機質に、そして高く聳えていた。中にある巨大な建物は恐らく何かの工場だろう。其所が甘い香りの発生源である事は間違いないように思えた。

私は、その工場の正体を探るべく、塀に沿って歩みを進めた。広大な敷地。当然、塀の外周もかなり長い。しかし、幾ら長いとは言え無限ではない。やがて塀は途切れ、無骨な入り口の門が現れた。そして、門の石柱に掲げられた看板にはこう記されていた…

【東鳩】

トーハト。お菓子の老舗メーカー。その瞬間、私の中の記憶と甘い香りが、ついにイクォールで結ばれた。そうだ、この香りは……東鳩キャラメルコーンの香りだ。もしも、この甘い香りを室内で嗅いだのならば直ぐにそれと気づいたかも知れない。が、町全体がキャラメルコーン色に香るとなれば話は別。規模が大き過ぎて逆に結びつかなかったのだ。

午後四時という時刻。恐らくそれは、大量のキャラメルコーンが出来上がる時刻なのだろう。その香りが排気口、煙突から外に流れ出し、やがて町全体がキャラメルコーンの香りに包まれる。かくして謎は全て氷解した。

積年(という程ではない)の疑問が解消したせいか、帰路へ着く私の足取りはいつになく軽やかであった。否、そうではない。単に追い風のせいで軽いだけだ。

それからしばらくして私はその町を離れたが、今でも時おり、夕暮れの町に風が吹くとあの甘い香りを思い出す。そして思う。今でも、あの町の夕暮れは甘いのだろうか、と。


【終】。