話題:SS

‐シュール週間『ケンちゃんと私』第2夜【青い稲妻と黒板消し】‐


高校の古文の先生はかなりのお爺ちゃんだった。多分、定年をとっくに過ぎていたと思う。

彼は並み居る教師の中でも存在感の希薄さにかけては飛び抜けており、一年を通して常に、綿毛が飛び去った後のタンポポのような低密度のオーラを樟脳くさい万年背広から放っていた。

そんなふうであるから、私たち生徒にとって古文の授業は完全なるリラクセーションタイムで、クラスの半分は眠りこけていたし、もう半分も漫画を読んだり携帯でネットをしたりと、正味55分の授業時間を各々が自由気儘に使っていた。

そんな彼にも一応名前があって、確か[狸障子 昭二](たぬきしょうじしょうじ)だったような気がするが、正直あまり自信はない。とは云え、恩師に対し“彼呼ばわり”するのも礼を逸した話なので、以降、彼の事は“狸障子先生”と呼びたいと思う。

狸障子先生は、授業中、生徒が眠ろうが携帯ゲーム機で遊ぼうが一向に気にする事なく淡々と授業を進めてゆくような、寛容を通り越し悟りの境地に達したような教師だったので、私たちは、よもや狸障子先生に怒られるような事は無いだろうと、安心し切って授業を受けていた。

ところが、そんな狸障子先生が一度だけ怒った事がある。

それは、うららかな春の午後イチの授業での事。教室へ入ってきた狸障子先生は、黒板に目をやるなり「アポ〜!」と教壇に対して馬場チョップを振り下ろしたのだ。

どうやら狸障子先生は、日直が黒板を消し忘れている事に怒っているようだった。

そして、驚いて固まっている私たちに向かって狸障子先生はこう云った。

「黒板は心の鏡です。授業が終わったら日直が速やかに消すように」

更に先生は、慌てて席を立とうとする日直を手で制すと右手に黒板消しを装着しながら、およそ似合わない不敵な笑みを浮かべて云ったのだった。

「とくと御覧あれ」

刹那、黒板上に青い稲妻が走ったかと思うと(そのように私たちの目には映った)、黒板に書かれていた前の授業の残跡は一瞬にして消え失せていた。僅か1秒にも満たない時間で狸障子先生は黒板上の文字を全て消し去ったのだ。それは正に電光石火の早業と云うより他なかった。

「私の黒板消しに不可能の文字はない」

黒板消し魂に火がついた狸障子先生は次いで日直の顔に黒板消しを振り下ろした。青い稲妻が走り、日直の顔が消える。ノッペラボウと化した日直の顔に今度は逆に下から上へと黒板消しを振り上げる。青い稲妻が走り、日直の顔が再び出現する。

「最初の技をデリートと云います。そして、次の技がサルベージです」

いつの間にか科目は《古文》から《黒板消し学》に変わっていた。

「とまあ、このように…極めてゆけば黒板消し一つで何でも消し去る事が可能となる訳です」

爽やかな弁舌でトンデモない事を曰う狸障子先生。クラスの全員が起きていた。

かくして狸障子先生は教師の威光を取り戻し、このお話はめでたく大団円を迎えたのであった…。

…となる筈が、ここで私がついうっかり余計な一事を云ってしまう。

「先生!何でも消せるのなら…先生が自らの黒板消しで自分自身をも消せるって事ですよね?」

教室に気まずい沈黙が訪れる。
しまった、空気を読み違えたか。

ああ、云わなきゃ良かった。
しかし、一度吐いてしまった言葉は飲み込めない。それでも私は何とか場の空気をなだめようと口を開いた。

「なあんてね。冗談ですよ、先生」

が、火がついた狸障子先生はそんな事では止まら無かった。

「ほほぅ…面白い。試した事は無いが、一つやってみるとしよう」

完全にムキになっている。

「いえ、本当に冗談なので」

「黙らっしゃい」

そして、タヌキゲリヲン初号機は暴走モードに突入した。

タヌキゲリヲンは右手に装着した
黒板消しをまず自分の左腕に振り下ろした。青い稲妻が走り、ゲリヲンの左腕が消滅する。次に右足。青い稲妻。左足。青い稲妻。…こうして、狸障子先生の体は次々に消滅していき、残すは黒板消しを装着した右手のみとなっていた。

黒板消しを嵌めた右手だけが空中にポワンと浮かんでいる。

右手が黒板消しを外し、拭き取り面を上にした状態で教壇の上に置く。そして、拭き取り面の上に右手を……最後の青い稲妻が走る……そして……狸障子先生は完全に消滅した。

(おい、先生消えちゃったぞ!)
(まずいだろこれ!)(他の先生にどう説明するんだよ!)

クラス中がかつてない動揺に包まれていた。

(誰だよ余計な事云ったのは!)(そうだ、先生を挑発したヤツが責任を取れ!)

当然のように矛先は私へと向けられた。

参った。困った。お手上げだ。

私は針の筵の上に居る気分だった。誰か助けて…。

と、その時…

「しょうがないなあ…」

一人の生徒が立ち上がり、教壇の上に置かれている黒板消しを手に取った。そして、クラス一同が固唾を飲んで見守る中、問題の黒板消しをパンパンッと手で叩いたのだった。

ポワポワポワワワ〜ン♪

すると、なんと云う事だろう!
巻き上がるチョーク粉煙の中から失われた筈の狸障子先生が再びその姿を現したのである。

「取り敢えずサルベージ完了と…。狸障子先生、年寄りの冷や水は腸の温度を下げるのであまり無理しないで下さいね」

先生を助け出した生徒はそう云いながら、黒板に近づくと白色チョークを手に取り、大きな文字でこう書いた…


『奇跡の価値は?』

続けて

『おめでとう』


私にはさっぱり意味が判らなかった。判らなかったが…彼に助けられた事だけは理解していた。

そして、勘の良い方ならもうお気づきかも知れないが、私と狸障子先生を救ってくれた生徒こそが、他ならぬ【ケンちゃん】なのだった。

以来、彼と飲む度、決まって最後はこの話になる…。

因みに、狸障子先生は現在も変わらず、のらりくらりと教鞭を取り続けているらしい。近い内に一度お会いしたいものだ…。


‐第2夜終了‐。