話題:妄想話

夕刻。帰宅ラッシュの満員電車からホームに降りた瞬間、私は自らの異変に気がついた。目の焦点がボヤけて意識が朧な感じなのだ。

何が起きたのかはすぐに判った。

“うかんむり”が一つ無くなっているのだ。

私の名前は【宇都宮正輝】という。餃子で有名な栃木県宇都宮市の宇都宮に、餃子では全く有名でない神田正輝の正輝と書いて【宇都宮正輝】。それが今は【宇都呂正輝】に変わっている。つまり【宮】から“うかんむり”が取り去られ【呂】にランクダウンしていたのだ。

【宇都呂】…うつろ…どうりで虚ろな気分になるわけだ。

すぐに駅長室へ行き、中にいた駅員に事情を話すと鉄道警察隊の人を呼んでくれたので、私は再度事情を説明する事にした。

「どうやら、電車の中で“うかんむり”落としてしまったみたいなんです…」

「“うかんむり”って、部首の“うかんむり”ですか?」

「はい」

すぐに落とし物の確認をとってもらう。だが、届いているのは傘やカバン、金塊などごくありふれた物ばかりで、残念ながら私の“うかんむり”は届けられていなかった。

「では…一応、遺失物届けを出して頂く事になりますが…正直、出てくる可能性は低いと思います」

「え、そうなんですか?」

「過去に部首の落とし物が届けられた事例は“りっしんべん”と“るまた”が各々一つだけで、しかも三十年以上前の話ですから…」

言われてみれば確かに、私も道などで部首が落ちているのを見つけた事は一度もない。仕方なく私は形式的に遺失物届けを出して駅を後にした。

なんだか面倒くさい事になってしまった。なるべく早く市役所に行って一時的な名前の変更届を出さなければならないし、免許証やパスポートも書き換える必要があるだろう。それよりも問題なのは、この虚ろな気分だ。

そこで、家に戻る前に近所の医院に寄る事にした。

「コレコレこういう訳なのです」

「フムフムそういう訳ですか」

「何とかなりませんか?」

「では何とか致しませう」

お医者先生は処方箋に【宇都呂】と書き、そこに【うとろ】とルビを振った。

「取り敢えずこれで【うつろ】では無くなると思うので、明日の午前中にでも処方箋を持って市役所の方へ行ってください」

「助かります」

保健が効かないらしく、処方箋一枚に二万五千円も取られてしまった。私は再び虚ろな気持ちに襲われたが、それは名前とは関係なく単に痛すぎる出費のせいだろう。【宇都呂ーうとろ】という、無理やり外国人が自分の名前に漢字を当てたようなカッコ悪い名前に、サッカーの【三都主ーさんとす】や【呂比須ーろぺす】を思い出したり、ついでにアルシンドのカッパ頭を思い出したりしながら医院を出て歩き始めると、携帯電話が鳴った。

鉄道警察からだった。

急いで駅に引き返した私は、そこで思わぬ展開に遭遇した。

私が駅から出た後、鉄道警察隊はかねてより追っていた鉄道専門窃盗団の一人を現行犯逮捕したのだという。そして犯人のカバンを調べてみたところ、二重底になっており、隠しスペースから“こざとへん”や“にすい”などの部首が発見されたらしい。その中には“うかんむり”もあった。

「念の為ご確認お願いします」

鉄道警察の人が発見された“うかんむり”を机の上に置く。

「どうです?これ、貴方の“うかんむり”で間違いないですか?」

私は机の上の“うかんむり”をじっと見つめた。そして言った。

「ええ、恐らく間違いないと思います」

それは適当発言だった。正直、私と他人の“うかんむり”の差が何処にあるのかサッパリ解らない。どの“うかんむり”も同じに見える。しかし、状況から考えれば私の“うかんむり”である可能性が高いし、それに、本音を言えば、今は喉から手や手袋や手拭いが出るほど“うかんむり”が欲しかった。

鉄道警察の人も薄々その辺りは察していたようだったが、何も言わずに“うかんむり”を私に返してくれた。

私は遺失物届けをキャンセルし、礼を述べて再び駅を後にした。


妻にどう説明しようか考えながら家に着くと、出迎えてくれた妻が開口一番こう言ってきた。

「あ、ケーキ買って来てくれた?」

「えっ?」

「ほら、今日私の誕生日だから帰りにケーキ買って来るよ、って今朝出かける時に言ったじゃない」

そ、そうだった…。“うかんむり”に気を取られていたせいで完全に忘れていた…。

「…まさか忘れたんじゃないでしょうねぇ?」

「すまん、忘れた」

下関産の最高級トラフグのような見事な膨らみを見せるふくれっ面の妻に私は一連の“うかんむり”騒動の事を全て話した。

「…まあ、見つかってなら良かったけど…私も【宇都呂ーうとろ】なんて名前になるの嫌だし」

「で、一つお願いがあるんだけど…」

「何?」

「処方箋貰うのにお金使ったお陰で今月のお小遣いが無くなっちゃった」

「つまり、新たにお小遣いをくれ、と?」

「出来れば。いや、是非」

「処方箋幾らだったの?」

「二万…八千円」

本当は二万五千円だが、ピンチはチャンス、三千円の利鞘を稼ごうと思った私はそう申告した。

「…本当は幾らなの?」

「…二万五千円です」

作戦は敢えなく失敗に終わった。

「全く…大事な“うかんむり”は落とす…誕生日ケーキは買い忘れる…処方箋一枚に二万五千円も使う…おまけに小賢しく利鞘を稼ごうとする…」

妻は明らかにむくれている。何とかなだめなければ…。

「あ、そうだ!明日の夜は久し振りにフグ鍋でも食べないか?」

「…何で私の顔見て突然そんな事言うのよ?」

「いや、他意はない…」

鯛はないが、目の前にフグはある。

どうやら、妻の“うかんむり”ならぬ“おかんむり”は当分の間続きそうだ…。

《おしまい》。