話題:有名人見ちゃった!
 

あれは私がまだ二十代初め、学生時分の頃だから、もはや一昔前の話という事になる。

当時の私は東京駅の地下が大層気に入っていて、さしたる予定の無い昼間など特に目的もなくただ東京駅の地下街をウインドウショッピングがてらブラブラと歩いて昼食をとって帰る事も多かった。

一体、東京駅の地下の何が気に入っていたのかという事だが、これは多分、様々な要素が絡み合ってのものだろうと思う。例えば、地下街の通路を抜けて地上に出れば八重洲ブックセンターという日本有数の大型書店があったし、もとより地下街自体かなり広大で多種多様な店が軒を並べており見て歩くだけでも面白かった。

また、縦横無尽に延びる何本もの通路と数え切れないぐらいある地上や企業ビルへの出入口が造り上げている複雑怪奇な迷路的構造も私がこの場所を好んだ大きな理由の一つなのだろうと思う。

更に云えば、通路も出入口も店も統一性がなく古い時代のものと最新のものが節操なく同居していた。北口側の丸の内方面への通路は薄暗くて空気の埃っぽい壁の煤けた怪奇味溢れるちょっと空恐ろしいもので、通る人もあまり無く特に若い女性などは明らかにそこを避けていたふうがあったが、そこから一本横の通路は明るく近代的で非常に多くの人が常に歩いていたり。

思えば、東京駅そのものからして、丸の内側の古いレンガ造りの駅舎と最新の駅設備が同居してる場所であり、過去と未来のコントラストが極めて強烈な云わば時空両面における巨大な迷宮であった。

さて、そんな都市論めいた話は横に置いておくとして、そのような不可思議な空気を持つ場所であるから、必然か偶然かは解らないが色々な出来事が起こるもので、最後にその中でも最も取るに足らない小エピソードを話してこの記事を締めようと思う。

大学の授業が休講になった或る平日の昼過ぎ。

何となく東京駅八重洲口の地下をぶらぶらしながら、《王様のアイデア》のショーケースに並ぶ“銀色の球が振り子のようにただ揺れているだけの用途不明の発明品”を買おうかどうしようか軽く迷った後、結局やめて地下通路を再び歩きだし駅舎方面への角を曲がった瞬間の事…

ボッヨ〜〜ンッ!!

私は突如として後ろに弾き跳ばされたのである。

何かゴム毬のような弾力性を持つ物にぶつかったのは明白だった。でなければ、このような弾き跳ばされ方はしないからだ。しかし、まさか東京駅の地下を巨大なゴム毬が歩いているとは思えない。

(一体、私は何にぶつかったのだ?)

怪訝に思いながら前を見ると…そこには、見るも巨大な太鼓腹、いや、ビール腹とおぼしき“お腹”があったのである。

(成る程成る程。私を歩幅一歩分も後ろへ弾き跳ばした物は、このハチ切れんばかりに膨らんだ巨大な腹であったのか)

物理学的な決着がついた事にホッとしながら、視線を上に上げるとそこには…濃い眉毛をしたとてもカタギには見えない外国人っぽい顔面があった。

(あっ!力也さんだ!!)

そう。その巨大なビール腹の上には安岡力也さんの顔が載っかっていたのである。と云う事はつまり、お腹と顔の間に超科学的な断絶が無い限り、そのビール腹も安岡力也さんと云うコンテンツの一部となる。端的に云えば、私がぶつかったのは安岡力也さんだという事だ。

(ま、まずい…このままでは東京湾に沈められてフカの餌になってしまう)

ところが、力也さんは

『悪い悪い、ちょっと余所見しててよ。おい、兄ちゃん大丈夫か?』

微笑みながら優しく声をかけてくれたのだった。

私『あ、大丈夫です』

力也『おう。それじゃ』

力也さんは片手を上げながら去って行った。

私『お疲れさまです』

何がどう“お疲れさま”なのかサッパリ解らないが、取り合えず私はそう云って去り行くホタテマンの背中を見送ったのだった。

それにしても、あのビール腹は凄かった…。一体、何ガロンのビールを飲めばあんな巨大な腹が出来上がるのだろう?

出っ張り部分の幅だけでも80センチぐらいあるのでは無いか?この世に、力士やプロレスラー以外で、あのように巨大かつ弾力性に富むお腹が存在しようとは…。

東京駅八重洲口の地下に広がるクノッソス迷宮の奥に居たのはミノタウロスではなく、安岡力也さんだった。

そんな力也さんも、つい最近お亡くなりになってしまったが、あの時の柔らかくも強い不思議な弾力は今でも私の体に残っているのである。


では…また☆≡(>。<)