相変わらずの猛暑日。すっかり関東の新名所となった東京スカイツリーの下、必死の形相で木魚をポクポクポンと叩き続けている独りのお坊さんが居た。
その額からは滝のような汗が流れ落ちている。
それでも、お坊さんは木魚を叩く手を休めようとはしない。
何故なら彼は、自分が叩く、木魚のポクポクポンと云う音がこの巨大な東京スカイツリーを支えていると思っていたからだ。
もし自分が木魚を叩くのを止めてしまえば、その瞬間、東京スカイツリーは倒れてしまう…頑なにそう信じ込んでいたのである。
しかし…
そのお坊さんの話はどうでも良い。
私が言いたいのは全く別の事なのである。
問題は、そのお坊さんが叩き続けている木魚だ。
その木魚はW県の人里離れた深い山奥の“御神域”とされている森から特別に切り出された物であったのだが、
実はその木魚を作った木工職人は自分の事を、伝説のヴァイオリン職人ストラディバリウスの生まれ変わりだと信じていた。
つまり彼は、自分ではヴァイオリンを作っているつもりで、ひたすら木魚を作り続けていたのである。
だが…
その木工職人の話はどうでも良い。
私が言いたいのは、そこでは無いのだ。
問題は、その木魚を買い付けている女性バイヤーにある。
実は彼女は十年前まで、海外で不法に仕入れたホッチキスの針を木魚の中に隠して国内に持ち込む【木魚密輸団】のリーダーで、事情通の話によると今までに彼女が国内に持ち込んだホッチキスの針は数十億本にも及ぶという。
しかし十年前、子供が産まれたのを機に密輸団を解散。その後、彼女は木魚業界随一の目利きとして、その名を馳せている。
木魚を木魚として正しく世の中に送り出す事こそが、これまで不当に扱ってきた木魚に対する罪滅ぼしだと彼女は信じていたのだ。
因みに彼女は、自分が密輸していた事に対する罪の意識は全く無いようであった。
が…
その女性バイヤーも木魚密輸団も、実はどうでも良い。
私が言いたいのは、また別の事なのだ。
問題は、女性バイヤーが密輸業を引退する引き金となった彼女の一人息子にある。
小学四年生の彼は、自分の母親が木魚と只ならぬ関係にあるらしい事に最近薄々感づき始めていた。
しかし彼は、それに関して母親に問い質すような事はしない。
何故なら、自分が生まれる前の母親には“一人の女としての人生”があり、それに対してとやかく云う権利は自分には無いと考えていたからだ。彼はとても利発な少年なのだ。
その利発さは、周囲の大人達も『彼は将来、立派な理髪店のオヤジになるに違いない』と太鼓判を押す程であった。
真面目で利発な彼は、朝、誰よりも早く学校に着く。
まだ誰もいない清々しい早朝の教室に入ると彼は、一番後ろの列の窓際の席に腰を下ろし、鞄から教科書を出して広げ、今日の授業の予習を始める。
そうこうしている内に次々と学友達が教室に入ってくるのだが、その学友の一人である【田中中田】(たなか・ちゅうた)君が毎朝必ず、彼に近づいて来てこう言うのだ。
『おい‥そこ、俺の席なんだけど』
そう…最後列の窓際の席、そこは本当は田中君の席なのである。
言われて少年もハッと自分の間違いに気づいて謝る。
『ゴメンだよ』
ところが、翌朝になると少年はまた、最後列の窓際の席に座ってしまう。
早朝、教室に入ると、彼はどうしてもそこが自分の席だと思い込んでしまうのであった。
しかし…
その問題の席も田中君も、はっきり言ってどうでも良い。
私が言いたいのは、それとはまた別の部分にある。
問題は、彼らの教室に掛かっている黒板だ。