『医者は‥医者はまだ来ないのか‥』
中世のヨーロッパを思わせる部屋の豪奢な天蓋付きベッドの上に力なく横たわりながら、大森豪蔵は正に最期の時を迎えようとしていた。
『医者‥医者は‥』
息も絶え絶えに伸ばして来る豪蔵の手を、執事の三津谷文吉は両手でしっかりと握り締めた。
『じきに‥じきに到着するはずです。旦那さま、もう少しの辛抱です』
そう言いながら三津谷は、主である大森豪蔵の徐々に生気を失い土気色になりつつある顔を見つめた。
大森豪蔵氏は日本の【陰のフィクサー】と呼ばれた実力者で、同時に大富豪でもある。
しかし、そんな彼も本年を以て齢(よわい)92歳…今まさに豪蔵の命の蝋燭の灯は消えようとしていた。
どんなに力のある者でも“老衰”に打ち勝つ事など出来はしない。
それにしても…
三津谷は壁に掛けられた時計を見る。針は午後3時を少し回っていた。遅い…。
約束の時間は午後3時で間違いない。まさか【神域の医者】と呼ばれるあの男が約束をすっぽかすとも思えないのだが…もしや、何かしら予期せぬアクシデントでもあったのだろうか?
三津谷が不安になりかけたその時‥
ガチャッ。
やおらドアが開いたかと思うと、全身を黒いマントにすっぽりと包んだ妙な出で立ちの男が姿を現した。
『…お、お待ちしておりました!』
出迎えようとする三津谷を軽く手で制しながら、黒マントの男が口を開く。
黒『すまない。緊急のオペが急に入って遅れてしまった』
緊急のオペが急に…
日本語がおかしい。もしかして彼は日本人では無いのだろうか?
そんな事を思うも、迂闊な事を言って気でも悪くされては一大事だ。
何せ今は、この男こそが豪蔵と三津谷に残された最後の希望なのだ。
闇社会の伝説。神域の医者と呼ばれるこの男が実在し、更には豪蔵が亡くなるより前に、こうしてコンタクトが取れた事だけでも十分、天に感謝しなければならない。
三津谷はツッコミたい気持ちを辛うじて抑え、会話を続けようとした。『緊急のオペですか………しかも急に』
しまった、ついイヤミな言い方をしてしまった。
が、黒マントの医者は気にも留めない様子で三津谷に言った。
黒『いや、今日の昼に起きた【高速道タンクローリー100台横転事故】…実は、それに関する緊急オペを急いで急に頼まれたのだ』
午後からのテレビを独占している、その未曽有の大事故の事は三津谷も知っていた。
何でも、高速道路を走っていた100台のタンクローリー車が同時に横転したらしい。
チラリとニュース画面で観た現場は、三津谷の想像を絶するような惨状であった。
ところが、それ程の大惨事にも関わらず、奇跡的に死者が一人も出ていないと云う驚くべき話も三津谷は同時に聞いていた。
と云う事は…
まさかこの神域の医者が全ての命を…
黒マントの医者の瞳がキラリと光る。