今だから話そう…

あの、虹色に輝く卒業式の話を…。

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あれは忘れもしない中学の卒業式の日。

最後のホームルームで、クラスの全員が一人一人それぞれ簡単な挨拶をする事になった。

そこでは、先生や友人に対する感謝の言葉を述べる者もあれば、三年間の思い出を語る者、或いは未来へ向けた決意表明をする者もいた。

独特の熱を持った不思議な空気の中、ついに私の順番がやって来る。

私は、肩幅に広げた両手を机に突きながら厳かに立ち上がると、先ずは教室にいる全員を端から端まで、サーチライトのような目付きで見渡す。

その威厳に満ち溢れた姿は、まるでシェークスピア俳優であった。

マクベスを演じる平幹二郎か、はたまたハムレットの鹿賀丈史か‥

そして、某クイズ番組の【ミノモンタ氏】の如く、たっぷりと間を置いたのち、重厚な口調で最後の挨拶をする…つもりが、どういう訳だか、口から言葉が出るより先に、鼻から風船の様な物が飛び出したのであった。

鼻から生まれる風船を人は鼻提灯と呼ぶ。

確かにその時、私は鼻がグズグズしていた。

しかし!寄りによってこの大事な場面で出現するとは!!

当然の事ながらクラス全員の注目は、私ただ一人に集まっている。

そこに来て、まさかの鼻提灯お目見え‥

『嗚呼ロミオ!貴方はなぜロミオなの!そして‥なぜ鼻提灯をぶら下げているの!』

教室にいるジュリエット達の、そんな心の叫びが聴こえてくるようであった。

しかし‥我がシェークスピア悲劇は、まだ終わりを告げない。

ロミオの鼻提灯は瞬く間に膨張し、顔の半分を占める大きさにまで達したのである。

自分史上最大の鼻提灯…いや、それ以上…ギネスブックに申請したい程、見事で強度のしっかりとした鼻提灯であった。

鼻提灯はシャボン玉のように虹色に輝いている。


深緑色した黒板も、少しくたびれ所々が欠けている教卓も、その向こう側で立つ寂しげな顔の先生も、愛すべき級友達も…全ては虹の向こう側。

虹色のプリズム越しに眺める教室は、どこか幻の風景のようであった。


そして‥限界まで膨らんだ鼻提灯は、パチ―ンと音を立て弾け散っ‥てくれれば、まだ良かった。それならば、皆も一斉に夢から醒めたであろう。


あろうことか、その巨大な虹色鼻提灯は‥

シュルルルル…

何事もなかったかのように、再び私の鼻の中へと戻って行ったのである!


初春の昼下がりに突如として訪れた『真夏の夜の夢』。

教室の仲間たちも、何が起こったのか判らぬふうで、一同キョトンとした表情をしていた。

その先のスピーチで自分が何を話したのか、正直まるで覚えていない。

覚えているのは‥

虹色のプリズム越しに眺める見慣れたいつもの教室が、夢の中のような美しさであった事‥

そして、黒板の上の壁に掛けられた飾っ気のない煤けた時計の秒針が、虹色の景色の中では確かに“時を刻むのを止めていた事”であった‥。


最後のホームルームが終わった後、女子の一人が近付いて来て言った‥

『ありがとう』

私は最初、言葉の意味が判らなかったが、彼女がシェークスピアの【夏の夜の夢】を手にしているのを見て、その意味を理解した。

それは数ヶ月前に私が彼女に貸して、そのままになっていた本だったのであった‥。