ハイヒール 


※エッセイになります
 授業で書いたものです
 脈絡のない長文ですすみません
 文字制限があったため
 無理矢理感のいなめない展開です
 (↑いいわけ)



ハイヒールの正しい使い方

もしも今、わたしに人の心を読む能力があったなら。こういう文章を書いてほしいと先生が思う、理想的なエッセイが書けるんだろうなあ、そうしたらきっと何を書こうかとこんなに悩むこともないだろうに、というのが憂鬱な月曜日、三時間目のわたしの心情だ。少しお腹がすいてきたけれど、お弁当を食べられるまでには授業がもう一時間。ああ、早くお昼休みになればいい。あ、ほらまた。こういう絶対的に叶わないことを、わたしは様々な場面でつらつらと考える。たとえば期末テストの前日、自室の勉強机にて。テストの最終日まで時間を早送りできないかなあ。あるいは、今日からダイエットをするぞと決めたその日に、父が珍しく買って帰ってきた最近話題のお店のおいしそうなチーズケーキを前にして。やっぱりダイエットは明日からとつぶやきながら、食べても食べても太らない体質にならないかなあ。無理だなんてわかりきったことだけれど。

それはいつだって無意識だ。気がついたらもう頭の中にやって来ている無遠慮な理想たち。ああしたらなあ、こうすればなあ、とつぶやきながら、叶えられることのない願望にほんの少し落胆する。けれど叶わないとわかっているから、しかたないと一つため息をついて、また次へ進む。現実に戻っていく。

叶わない願い事のはけ口のようなこの仮定法は、どうやら合わせて「たられば」と呼ばれるらしい。辞書で引いてみると、その項目が見つかった。「事実とは無関係な仮定の話。また、事実とは異なることを仮定してする後悔。してもしかたがない話という意味で使われることが多い。」なんだかかなりマイナスな意味で使われる言葉のようだ。けれどわたしは最初に長々と述べたとおり、この「たられば」を本当によく使っている、使ってしまう。いや、そう言い切ってしまうと語弊があるのかもしれない。実際に言葉になることは少ないのだけれど、もし毎回口にするように意識したならきっと口癖ランキングのダントツの一位だ、というのがおそらく正しい。とすると、わたしは「してもしかたがない話」ばかりを繰り返している、ずいぶんネガティブな女子高校生であると言えるわけだ。ちっともうれしいことではない。人生の青い春とも呼ばれる、大人たちがいとおしさと切なさとを持ってふり返る季節を、わたしは既にふり返り嘆くことに費やしてしまっているわけなのだから。

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