「モブくん、卒業後は家を出たまえよ」
パソコンの画面とにらめっこしたまま師匠はへんに大仰な口調で僕にそう言った。高校の課題に手をつけていた僕は顔を上げて師匠を見やる。この話題が終わったらシャーペンの芯を貸してもらおう。
「なんでですか」
「なんでってそりゃ、人生経験の為だな。親元を離れてようやくわかることっていうのは星の数ほどある。当たり前のようにメシが出てくることも税金雑費もろもろを勝手に払ってくれることもない生活を経験してるかしてないかで将来の自分は違ってくるぞ?まあそれと、単純に保護者の目がなくなって自由にできるのが楽しいからオススメだってのもあるが」
カチカチ、とマウスを操作しながら師匠はつらつらと意見を述べる。どうしてか僕のほうには顔を向けない。
師匠の言うとおり一人暮らしをするのはいい経験になると思うし、僕もうっすら考えたことはある。今はまだ二年生の春だからそんなにはっきり考えなくてもいいか、と思っていたけど、こう提言されてみると本格的なビジョンが頭に広がってきた。父さん母さん、そして律と離れるのは寂しいけど、確かにいろんなことが学べるだろうな。友達も家に招きやすくなるかもしれない。師匠も来てくれるだろうか。
「そうですね。したくなってきました。大学からの一人暮らし、ちゃんと考えてみます」
「あ。いや」
僕の言葉を耳にしたとたん、師匠は液晶画面から目を離して久しぶりに僕のほうを向いた。その様子はどこか焦っているようにも見える。焦る?どうしてだろう、僕は何かへんなことを言っただろうか。
「うん、まあ。一人暮らしは、良いことなんだが」
「師匠?」
「今回はそうじゃなくてだな……」
はあ、と嘆息して師匠は眉間を揉んだ。意図が読めないから大人しく先の言葉を待つ。腕を組んでまた僕を見た師匠は、けれどすぐに視線を逸らした。
「あのさ」
「はい」
「俺のアパートどう?」
「え?師匠のアパートですか?」
「うん」
「ああ、この前行かせてもらいましたよね。広くていいなって思いました。引っ越したんでしたっけ」
「いや感想じゃなくて」
意味がよくわからず頭にクエスチョンマークが浮かぶ。どういうことですか、と訊けば師匠は組んでいた腕を解いて机を指でトントンと叩いた。珍しく落ち着きがない。
「モブ、家賃というものを知ってるか」
「知ってますよ、それくらい」
「家ってのは住むだけでも金を払わなくちゃならない。その負担はなかなかに厳しいものだ。だが、その負担が半分になる裏技がある」
「裏技?」
「そう、裏技だ。それが何かというとだな。ずばり、折半だ」
「せっぱん……」
「折半すれば負担はかなり減る。目ざとい奴らはみんなこの裏技で家賃その他諸々の支払い地獄を乗り越えてんだよ。俺だって使えるもんならこの裏技を使いたい。だが残念ながら相手がいなかった。今まではな」
「はあ……」
「ところで、だ。お前が言ったように俺は前の部屋から引っ越しをした。部屋が少し広くなっているわけだ。二人でも充分住めるくらいにはな」
「えっと……」
「さて。モブ、訊こう。お前はどうしたい?」
やりきった、という顔で師匠はようやく口を止めた。やたらに凛々しい顔で僕を見つめてくる。が、正直マシンガンみたいな言葉の雨に頭がついていっていなかった。ええと、話の流れを整理すると、つまり……。
「つまりコイツはシゲオと暮らしたくてしょーがねーって言いたいらしいぞ」
隣を見るといつの間にかエクボがいた。なぜか呆れたような眼差しで師匠を見ている。師匠は嘘っぽい笑顔を返しながら『いつからいやがった』と低い声で呟いた。なるほど、そうか。師匠は僕と暮らしたい、ということなのか。
「あの、師匠」
「あっ?な、なんだ?」
エクボを睨みつけつづける師匠を呼ぶと慌てて開かれた口が上擦った声をあげた。机の上でその拳がぎゅっと握られている。帰ったら同居のことちゃんと調べないとなあ、と思いながら立ち上がろうと机に手をついたとき、ちょうどシャーペンが指に触れた。あ、そうだ。
「シャーペンの芯持ってませんか?」
「……今!?」