しまった、と思った時には自分の手は瀬戸の服の裾を掴んでいた。早く離そうと思っても意思に反して指は少しも動こうとしない。居酒屋の看板の灯りが瀬戸の黒いジャンパーに光を差していた。
「内海?」
驚いた顔でこっちに視線をやる瀬戸の口から白い息が溢れる。アルコールで上気した顔の、ゆるくほどかれた瞳の奥がじっと俺をすがめた。普段ならこいつを前にしていると言葉があふれて止まらないほどなのに、今は何を言うべきかまったく分からない。思考と体がこうも分離しているのは生まれて初めてだった。
「酔ってんのか?……調子悪い?」
様子をうかがうように尋ねられ、とりあえず首を横に振った。べつに心配を掛けたいわけではない。むしろ本当は『またな』と軽く口にしてそのまま自然に帰ってしまいたかった。ごまかしのひとつも出来ない自分に少し失望する。酒で火照っているとはいえさすがに体が冷えてきたし、同じくそうであろう瀬戸を今すぐにでも解放してやりたいのだが。
『次いつ会える?』と訊けてしまえば楽なのだろうか。お互い社会人になってあの頃のように暇を持て余すことはなくなった。今日こうして飲みに来れたのもほとんど奇跡に近い。このまま手を離して別れたあと、また飲みに行くまでどれくらい季節が変わるのだろうか。……らしくない思考に陥っていることは重々承知している。瀬戸が未だに酒を警戒する気持ちもよくわかる。
瀬戸の目は未だ物言わない俺を捉え続けていた。やがて、その眼差しがふっと和らぐ。次の瞬間、『あー』と大きく発すると気だるげにこう呟いた。
「家帰るんめっちゃダルいわ。内海、家近いんやろ?」
「え……まあ近いな」
「泊めてくれへん?」
そう言った瀬戸になぜだか一瞬面食らってしまった。ここで別れるものだと思っていたから、まさかそういう展開に持っていくとは。なあなあ、と餌をねだる猫のような声を出しながら瀬戸は俺を見つめる。自分の手がかすかに震えていることを悟りながら、少しの間のあとに返事をした。
「ええけど」
「おっしゃ。じゃあ行こか」
にへらと笑った瀬戸が俺の手を掴んだ。びくりと体を揺らしてしまったこっちになどまったく構わずその足は歩き出す。瀬戸の手は俺と同じくらい冷たかったが、その中に確かなぬくもりがあった。妙な安堵を覚えながら、瀬戸、とその名を呼ぶ。
「お前、俺の家どこか知らんやろ」
「……ちょうど先陣切ったことに後悔してたとこや」


「さいきん夢見悪くて」
「ほーん。クモとか出てくるん?」
「それアラクノフォビア限定の悪夢やろ」
たまに姉が来るときのために置いている客用布団に瀬戸が寝転ぶ。大きなあくびをひとつしたあと、眠そうな目でベッドの上の俺を見上げてきた。
「どんな夢見るん」
「溺れる夢」
へー、と呟く瀬戸の目尻が融ける。横たえた自身の体もふわふわと浮遊感を持ち始めてきた。寝る前に近くに瀬戸がいるというのはどうにも不思議な気持ちだ。たまに見る良いほうの夢のような。柔い眼差しで瀬戸が俺を見据える。
「じゃあな、内海。また悪い夢見たら夢の中で俺のこと呼んでみい」
お母さんすぐ駆けつけたるわ、と微笑みながら瀬戸が言った。顔の横に置いてあるスマホの光が瀬戸の頬にうすい緑を差している。瞳の中には星が浮かんでいる、ように感じられた。あ、一等星。久々に見つけた。
「いらんねん母性」
「ありがたくもらっとけや。あー、ほんま眠い。内海ふたりに見えてきた」
「俺も寝るわ」
す、と瀬戸の瞼が下りて一等星は隠される。けれど目を開ければそこには変わらず一番明るく光る星があるのだと、心から思うことができた。さてこいつは本当に夢の中まで現れるのだろうか。脳天気そうな顔と声をぶら下げて、内海いけるか、泣いてへんか、寂しかったなあ、と笑いながら俺に駆け寄るだろうか。そして朝起きれば、当たり前のように目の前にいて『よう』と声をかけてくるのだろうか、あの川にいたときのように。どうにもわくわくしている自分がいるのが少し可笑しかった。たぶんすべて当たっている。瀬戸はアホやから。
「おやすみぃ内海」
「……おやすみ」



話ブレた