「チューしていい?」
なんとなく瀬戸の家に呼ばれて、なんとなくしていた会話に沈黙が生まれて、二人なんとなく顔を寄せて、俺がなんとなく目を閉じようとしたちょうどそのとき。瀬戸がわざわざ俺にそう確認を取ってきた。
「普通そんなん訊かんと思うで」
「え?でももし嫌やったら困るやん」
「空気をうまく読めってことや。いちいち『いい?』って確認して相手に了承を取らせるいらん段階を踏むことでお前は相手に不必要な羞恥心を抱かせてんねん」
「それはごめんやけど、俺はこういうとこちゃんとしたい派やねん」
「『派』を持ち出して思考の多様化を強要するのは良くないと思うで」
「あーもー、話どんどん長なっていくわ。それで、結局チューしてもいいん?」
キスのことをわざわざ『チュー』と呼称してることにも正直引っ掛かりを覚えているが、そこまで指摘しているとこいつの言うとおり話の終わりが見えなくなってしまう。瀬戸が聞きたいのはキスしていいかどうかだ。……ほんまにこの状況、無駄な羞恥心を抱かされてて腹が立つ。
「見たらわかれへん?」
「え?」
「目ぇ閉じようとしてたやろ、俺」
「えー、いや、気づかんかった」
「なんで気づけへんねん」
「五メートル前から目閉じてたから俺」
「キス一つに対してあまりに不必要な助走やな」
「え、つまりオッケーってことなん?」
「ああ、うんうん。もうオッケーってことや。こんなんあんまり言わせんといてくれる」
ため息を吐きながら半ばやけくそでそう呟く。瀬戸は『おっしゃ』とガッツポーズを決めたのち俺の両肩に手を置いた。内海、いくで。そう口にする瀬戸の表情は切腹前の戦国武将ばりに思いつめている。というか眼力がすごい。俺やからまだええけど、もし女子にこんなんやったら最寄りの警察に駆け込まれるぞコイツ。
「あの……目ぇ閉じてくれ」
見つめ合った状態でしばらく沈黙していたとき、ふいに目の前の視線が逸らされその口がもじもじと言葉を放った。
「いやお前が閉じろや。五メートル前から目閉じる万全性どこ行ってん」
「いや、なんかタイミングわかれへんようなってもうた。ていうかなんでそんな眼力強いねん」
「お前の圧に合わせてんねん」
「とにかくいったん閉じてくれ、どえらいやつかますから」
「今ので俄然閉じたなくなったわ」
言いつつ、このままでは夜中までかかりそうな気配を察知し渋々目を閉じてやる。肩に置かれている瀬戸の両手に力がこもり、前からは必要以上に大きな咳払いが聞こえた。何度か深呼吸しているのがわかる。やがて、上擦り掠れた声が『内海』と呟いた。咳払いの意味ないやん。
「いくで」
「うん」
時計の秒針が部屋に響く。瀬戸は最後の深呼吸を終え、おそらく顔をこちらに寄せてきた。顔に息がかかる。次の瞬間には唇に瀬戸の感触が、
「小吉ー!内海くん来てるん?」
ばち、と二人同時に目を開けた。思いのほか距離が近いことに驚き双方が弾けるように後ろへと下がる。階下から聞こえてくる声は考えるまでもなく瀬戸の母親の声だった。
「来てるんやったらジュースでも出したりや!部屋持っていこか?」
「い、いらんいらん!取りに行くわ!」
「内海くんごめんねー、ゆっくりしていってねー」
「あ、はい、ありがとうございますー」
嵐のような応酬が終わり、瀬戸が深い息を吐く。そこからしばらく沈黙が続いた。互いにじっと無言で相手を見つめる。やがて瀬戸がおそるおそる、声を潜めながらこう言った。
「……め、目ぇ閉じてくれへん?」
「……また今度にしよか」